本当に愚将?武田勝頼、妹を上杉に嫁がせた深い訳 一睡の夢に消えた甲州・相模・越後の「真・三国同盟」
謙信が病没すると、養子の上杉景虎と上杉景勝は、跡目をめぐって争った。「御館(おたて)の乱」である。
はじめ景虎は会津の蘆名家、実家である関東の北条家、ならびにその同盟国である甲斐の武田家らを味方につけ、景勝を孤立無援の窮地に追い込んだ。ここまで戦略は優秀で、まさに一級だった。
だが、景勝はなりふり構わない動きで、軍事・調略・外交の逆境を覆していく。翌年3月、追い詰められた景虎は自害。景勝の辛勝に終わったのだ。
その勝因を2つほど挙げるなら、北条からの援軍が越後に迫るのを食い止めたことと、武田軍を味方に引き入れたことにあろう。
景勝は、最前線の武将たちに的確な指示を飛ばして、北条軍の侵攻を食い止めた。さらに途方もない外交努力によって、敵となるはずの武田勝頼と「甲越(こうえつ)同盟」を結んだ。尋常ならざる離れ業である。景勝の力量と武運は破格級だった。
なぜ武田勝頼は上杉景勝に妹を嫁がせたのか
ところで勝頼は、景勝と交渉した際に、自らの妹を景勝の正室とする約束を結んでいる。親しい身内を相手に嫁がせるのはある意味、人質を差し出すのに等しい。これでは景勝優位の関係とすらいえる。
なぜこんな交渉ができたのか?
そもそも勝頼は、同盟国の氏政の要請で、越後の景勝を攻め、景虎を救援するため越後介入に動いた。しかし同年6月、勝頼の先手を担う武田信豊の陣中に、景勝からの使者が訪れる。ここで和睦交渉が進められた。普通ならこんな使者は斬り捨てられてもおかしくない。武田家に出陣を要請した北条氏政は、景勝の討滅を望んでいたからである。
だが、信豊は使者を受け入れ、対話に応じた。一応その交渉は「景虎・景勝」の「和親」を目的に進められた。同月下旬までに事態を聞いた勝頼は、信豊の判断を「勝手なことを!」と叱ったりせず、それどころか景勝の家臣に返書を送り、交渉を順調に進ませた。
景虎にも景勝と仲よくするよう使者を派遣したが返事はなかった。そこで勝頼は景勝とだけ交渉することにして、8月19日、景勝に最終的な結論を記す起請文を書き送った。
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