本当に愚将?武田勝頼、妹を上杉に嫁がせた深い訳 一睡の夢に消えた甲州・相模・越後の「真・三国同盟」

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そこでは、景勝が景虎と和平を結ぶことを約束してくれたら、北条軍の越後侵攻を目的とする信濃入りを阻止することと、景勝と「縁段(談)」を進めることと、景勝を最優先に考えて関係を深めていくことが誓約されていた。

ここで、景勝と勝頼の「甲越同盟」および菊姫の縁談が固められたのである。ただし、もし景勝が景虎に理由もなく攻撃すれば、どちらにも味方しないとも書いている。念入りの一文だが、これを見たら北条も激怒しかねないぐらい景勝に有利な誓いであった。

しかもこの後、勝頼は、北条が越後に入るため信濃へ進むのを妨害するような動きを見せており、景勝支援といって差し支えない態度を示した。

これらの不可解な動きは、勝頼を愚将と評する一因となっている。しかしどれも、それほど突飛な判断ではない。

武田勝頼が上杉家に期待したこと

勝頼は謙信生前に上杉家と和睦していた。この関係をこれからも保とうとしたにすぎない。また、勝頼は、双方の実力を照らし合わせ、今後政権を運用する能力は景勝のほうが秀でていると判断したのだろう。

勝頼が何より期待するのは、上杉家が謙信以来の対織田路線を継承してくれることで、この点から景勝に見込みアリと見たに違いない。

結局、景勝は景虎と和睦するどころか、交戦を再開することになる。やがて冬が来て、それまで景勝の家臣に足止めされていた北条軍は作戦遂行を中止。こうして兵数の少ない景虎は孤立して、追い詰められていく。

翌(1579)年3月、景勝は景虎を攻め滅ぼした。この前後で北条家と武田家の関係は急速に悪化し、武田は北条と手切れを覚悟して、国境に多数の要害を構築し始める。

それから半年ほど経過した9月から10月、勝頼は自身の妹・菊姫を景勝に嫁がせた。景勝25歳、菊姫22歳。ここに「甲越同盟」は内実を得たのだ。縁組の話し合いが進められてから1年以上経過しての祝言であった。

なぜこんなに時間が延びたのかは不明である。景勝は3月に上杉景虎が自害する形で御館の乱を乗り切っており、それから約半年後のことなので、上杉家の都合であろう。一方、武田家はこの8月に北条家との対立関係が深刻化し、9月に全面戦争と化している。

同じころ、三河では徳川家康が嫡男・信康を自害させる事件が起きた。菊姫の祝言は、このように東国情勢が切迫する最中に行なわれた。

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