本当に愚将?武田勝頼、妹を上杉に嫁がせた深い訳 一睡の夢に消えた甲州・相模・越後の「真・三国同盟」

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

それにしても景勝と菊姫──こんな適齢期のふたりが都合よく未婚のままでいたものだ。菊姫の婚姻が決まったのは21歳で、上級武士の娘としては少し遅い婚姻である。

元亀元(1570)年秋すぎ、13歳の菊姫は、実は伊勢一向一揆を主導する願証寺(がんしょうじ)の幼い僧侶・佐堯顕心(さぎょうけんしん/顕忍[けんにん]とも。証意[しょうに]幼息との説あり)と婚約していたとも言われている。だが、信玄生前中にこの婚約は破談となった。

また、その後佐堯は、織田軍に殺害あるいは自害を余儀なくされた。まだ少女だった菊姫はここに元婚約者を失ったのである。勝頼と菊姫は、兄妹揃って織田に対する鬱屈の感情を抱いていたことであろう。それは武田家臣たちも同じである。だから、勝頼の外交判断に異を唱えて諫める者は現れなかったのだろう。

謙信が長年抱き続けてきた宿願

さて、ここで考えられることがある。ひょっとすると、生前の謙信はまだ独身である景勝と、当時の適齢期を過ぎようとする勝頼の妹をめあわせる秘策を考えていたのではないか。

手取川以後の謙信は、すべてを上洛作戦に費やすつもりでいただろう。率兵上洛を挙行して京都に足利幕府の秩序を回復させるのは、謙信が長年抱き続けてきた宿願である。若いころ、同様の方針で動いたことがあったが、準備と実力の不足から戦略が破綻してしまった。

今回の敵は、あの織田信長である。万全の態勢で挑まなければ、どこで足を引っ張られるかわからない。実際、信長はすでに本庄繁長や伊達輝宗(てるむね)に、謙信を裏切ってその動きを妨害することを期待していた。信長は謙信上洛を阻止するためなら、何でもやるに違いない。また、関東管領名代でもある謙信は、関東の武将たちから援軍を請われれば、立場上これを見捨てることができない。

まずは足元を固めなければならない。そこで東国の大名を見渡すと、武田勝頼がいた。勝頼と謙信は和睦を果たしていたため、ここ数年は平穏である。武田家と北条家は堅固な同盟関係にある。謙信にすれば、勝頼と協調しない理由はない。

北条家も関東の領土がほしいというより、敵対する大名の駆除のために抗争を繰り返している。武田を通して、話し合いの機会を設けてもらえれば、越後と甲斐と相模の三家和合も可能だと考えたのではないだろうか。

そして、そのためには「天下一之軍士(ぐんし)」を擁する上杉家と武田家の関係を明確な軍事同盟に更新するのが理想であり、親類家族の仲となるのが望ましい。

次ページ謙信が武田家に婚姻を打診しても不自然ではない
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事