信長49歳での死「本能寺の変」我が子に抱いた疑心 想定外の家臣の裏切り、どんな反応だった?
今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は本能寺の変勃発の背景を分析する。
天正10年(1582)5月26日、織田重臣・明智光秀は、中国地方に出陣するため、近江坂本を立ち、丹波亀山城に到着。翌日には、亀山から愛宕山に赴き、一晩参籠(寺社に一定の期間こもって祈願すること)し、神前で御籤を二度・三度と引いたという。
同月28日には、連歌を興行し「ときは今あめが下知る皐月哉」(時は今である。雨が世に降る5月であることよ)と光秀は詠んだ。そして同日には亀山に帰城する。
一方、織田信長は、同月29日に上洛。夕刻には宿所である本能寺(法華宗本門流、四条坊門通西洞院にあり)に入る。
信長からすれば想定外だった本能寺の変
本能寺は広い寺域を持ち、水堀や土居(土塁)で囲まれていたため、城と同様の防御性を持っていた。お供の者は、小姓衆20・30人のみであった。国に戻り出陣の用意を整え、命令があり次第、出立するよう命じられていたので、信長の周りに軍兵はいなかったのだ。
後世から見れば、これは信長の油断と言うこともできるが、信長からしてみたら、まさか自分を襲う者がいるとは想定外だっただろう。
信長=独裁者、独裁者は猜疑心が強いというイメージから、信長を疑り深いと思っている人もいるかもしれないが、そうとばかりは言えない。信長はこれまで多くの武将に裏切られてきた。妹婿の浅井長政、臣従した松永久秀や荒木村重……。彼らの謀反情報が入ったときに、信長は謀反を信じられないといった態度を示している。
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