信長49歳での死「本能寺の変」我が子に抱いた疑心 想定外の家臣の裏切り、どんな反応だった?

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『三河物語』にも本能寺の変の描写があるが『信長公記』に比べて、簡素である。

それは『明智光秀は、信長が取り立てた者で、丹波国を与えられていたが、突然裏切った。光秀は夜襲をかけ、本能寺に押し寄せ、信長に腹を切らせた。信長は表に出て「信忠の裏切りか」と仰せになったが、森蘭丸が『明智の裏切りのようでございます』と答えると『明智の変心か』と述べた。信長は明智の配下に槍で突かれると、奥に引き下がる。蘭丸は槍で戦い、戦死する。館に火を放ち、信長は焼死した』というものだ。

我が子の裏切りを疑う信長

内容は『信長公記』とほぼ同じだが、軍勢が押し寄せたとき、信長が「信忠の裏切りか」と言い放ったというのが、特徴的だ。

信長が本当にこんなことを言ったのか、本当のところはわからないが、信長の身になって考えてみたら、自身のいちばん近くにいるのは、信忠ぐらいだ。

「信忠が裏切ったのか」と感じたとしても、大きな違和感はない。49歳で自刃した信長。父が急襲されたことを知った嫡男・信忠は妙覚寺を出て、父と共に戦おうと思い立つ。

しかし、寺を出たところで、村井春長軒父子に出会い、本能寺はすでに焼け落ち、敵がこちらに攻め寄せてくること、堅固な二条御所に立て篭もることをアドバイスされる。

二条御所に入った信忠に対し「まずは安土に引き揚げては」と助言する者もあったが、信忠は「このような謀反を起こすくらいだから、敵は我らを易々と逃しはしまい」と京都に留まり、決死の覚悟で戦うことを決意。そうこうするうちに、やはり明智の軍勢は攻め寄せて来て、次々と信忠の周りにいた者を討っていった。 

明智の軍兵は、近衛前久の御殿の屋根にまで上がり、弓や鉄砲で攻撃を加えてきた。そのため、信忠方の死傷者は続出。ついに、御所は無人に近い状態になる。

明智軍は御所内に侵入し、放火する。信忠は「私が切腹したら、縁の板を外し、その中に入れよ。死骸を隠せ」と命じたうえで、家臣に介錯させた。

「本能寺跡」の石碑(京都市中京区小川通蛸薬師元本能寺町)(写真: skipinof /PIXTA)

『三河物語』にも二条御所の戦いの記載はあるが『信長公記』の文を基に先述した内容と比べると、こちらも簡潔である。「明智は、信忠の館へ押し寄せた。織田九右衛門尉、福富をはじめ、百余名が籠っていたので、火花を散らした戦いがあった。信忠はじめ、その殆どが戦死した」とあるだけだ。

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