信長49歳での死「本能寺の変」我が子に抱いた疑心 想定外の家臣の裏切り、どんな反応だった?

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浅井が寝返ったときも「裏切り情報はうそだ」と最初は思い込んでいたし、松永や荒木が謀反したときも「どのような事情があるのか。存分に思うところを申せ。望みを叶えてやろう」と落ち着いて話している(『信長公記』)。

そうした発言からは、彼らが裏切る理由もわからないし、そもそも裏切ることなどあまり想定していない信長の心理を垣間見ることができる。そのため、信長が少数のお供の者を連れて本能寺に入ったことは、これまでの信長の言動を見ていれば、それほど驚くことではない。

さて、6月1日、公家や僧侶が信長のもとに挨拶にやって来る。信長は彼らと話をし、同月4日には西国に出陣する。「戦はたいした手間はかからない」などと述べたという。信長の後継者・織田信忠は、家康らの警護のため上京後は堺まで同行するはずであったが、信長上洛を知り、自らも京都に留まっていた(宿泊所は本能寺の至近距離にある妙覚寺)。

もし、信忠が堺に行っていたら、彼は生きていた可能性が高く、そうなると後の歴史(天下の趨勢)も変わっていたであろう。

本能寺に向かう明智軍

同じ頃(6月1日の夜)、明智光秀は信長への謀反を企て、重臣らと謀議していた。『信長公記』によれば、信長を討ち、天下の主になるために挙兵したという。

一方で『三河物語』には、光秀謀反の理由などは書かれてはいない。明智の軍勢は、中国方面に向かうはずだったが、途中で引き返し、馬首を京都・本能寺に向けた。

本能寺を取り巻いた明智軍は四方から乱入。信長や小姓たちは初め、これを下々の者の喧嘩と認識したようである。

だが、叫び声が上がり、鉄砲を撃ち込んできたのもわかって、「謀反」だと認識した。「如何なる者の企てぞ」と問う信長に対し、森蘭丸は「明智の者に見えます」と応答。

「是非に及ばず」(やむをえない)。信長はそう話すと、弓を取り、矢を放ち抗戦する。そうした間にも、明智の軍勢に押されて、お供の者は次々に討死していく。

弓矢を放ち戦っていた信長だったが、弓の弦が切れてしまい、途中からは槍で応戦した。しかし、肘を敵の槍で突かれたことから、前線から退く。そのとき、女中衆に対して「女たちはかまわぬ。急いで脱出せよ」と述べたという。

すでに本能寺からは火の手があがり、延焼していた。信長は敵に最期の姿を見せたくないと思ったのか、寺中深く入り、戸口には鍵をかけ、自害するのであった。

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