85歳の母を自宅で看取った娘が歓喜に包まれた訳 仲のいい母娘ではなかった関係が一瞬で修復

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日本看取り士会の柴田久美子会長は、在宅介護では板倉と実母のように、お互いにある程度言いたいことを口に出すほうが、「介護うつ(介護する側がうつ症状になること)」を防げると指摘する。

「親の介護を“立派な人”としてまっとうしなければと思いすぎると、ストレスが溜まった挙げ句、家族にうつ症状が出やすいんです。それを防ぐには板倉さんのように、率直な感情を時々吐き出されたほうがいいと思います」

しかし分岐点があります、と柴田会長は続けた。

「食事を口からとれなくなるとか、しゃべれなくなるとお看取りが近づいています。そこからは介護されるご家族の方々も、親御さんに対して苛立ちを言葉にするのは、我慢されたほうがいいでしょう」

板倉の話だと、それまでは茶碗むしなどを自分の口で食べていたが、亡くなるひと月前頃からそれが難しくなった。亡くなる1週間前からは誤嚥性肺炎を防ぐために、母親が好きな日本茶にとろみをつけて飲ませるだけだった。

11月下旬、藤原は板倉家を訪問。母親は目を開けていて意識はあるのだが、もう言葉を発することさえ難しそうだった。

「でも、私が『また来ますね』とお伝えしたら、最初の面会時と同じやさしい笑顔を向けてくださいました。一方で11日前と比べると明らかに衰弱されていて、明朝までに何かあったらどうしようか、と不安をおぼえました」(藤原)

翌日午前中、藤原は鳥取県米子市で、看取り学講座で講師を務める予定があった。もし不測の事態になっても、板倉家のある出雲市まですぐには駆けつけられないためだ。彼女の嫌な予感は的中する。

母親の大きな愛に包まれて感じられた「歓喜」

「はぁはぁ……、はぁはぁ……」

板倉に抱きしめられながら、うつろな眼を遠くへ向けて弱々しく呼吸する母親の姿が、板倉のスマホに残っている。加湿器が吐き出す絹雲のような水蒸気が、母親の顔を時々かすめる。藤原が面会した翌日の午前11時前だった。

板倉は右の手の甲で母親の左の頬をなでながら伝えた。

「……お疲れ様でした。もう、じゅうぶんだよ。頑張った、こんなに頑張って偉いね」

母親と口論になると歯に衣着せぬ物言いで、藤原を時々驚かせた板倉も、実は心ひそかに葛藤していた。

母親が食べ物を口にしなくなったときは、その口をこじ開けてでも食べさせたい衝動にかられた。藤原が初めて板倉の母親に面会した12日前。奥まった部屋から、日当たりのいい窓際の部屋に母親を移す際も迷いに迷った。その部屋は義父を看取った部屋だったからだ。

一連の葛藤をへて、かつて赤ん坊の自分を抱いてくれた母親を、板倉がやさしく抱きしめ返していた。

しかし、板倉はこのとき母親の愛にすっぽりと包み込まれていたという。

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