今の日本人を生きづらくさせている「抑圧」の正体 なぜ人は他人の話を自分ごとにしてしまうのか

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そうなると根拠を軸に話を聞くことは、こちらの常識に寄せようとしているだけで、相手の話を相手の話として聞くことからほど遠い。その隔たりを「才能の豊かさ」で括ってしまったら何も話を聞いていないのに等しい。

「常識に則っているか」に至っては、「みんながそう言うから」といった他人任せの言い換えでしかない。話し手の目の前にいるのは私であるのに、「みんな」を持ち出して、「私」として対峙していないのだから、とても失礼な態度だと思う。

普段から客観という語を多用するわりには、それについてずいぶんと誤解し、誤用している。主観を省けば客観的になれると思ってしまうのもそのひとつだ。でも、その発想はすぐに壁に行き当たる。なぜなら主観抜きの客観など存在しないからだ。考えるまでもなく、私の存在を抜きにして私は事物を観ることができないし、話を聞くこともできない。

客観性はもしかしたら幽霊のような視点

主観というものを独善で狭小なものと考えてしまうのは、私たちの自信のなさの現れだろう。そうまでして自分のものの見方を放棄して何を得ようとしているのだろう。誰ともわからない外部の視点でものを見ることを客観的で正しいと思っているとすれば、とても奇妙なことなのだが、あまりそのことを疑わない。

私たちが信頼を寄せている客観視はもしかしたら、この世に存在しない幽霊のような視点を取ろうという試みに近いのかもしれない。

では現実に足をつけて世界を捉えるには何が必要だろう。「いかに客観的になれるか」ではなく主観の徹底に手がかりがあるのではないだろうか。
つまり、自分のものの見方は、どこに立って、どの角度から、どのように見ているから成り立っているのか。私の見方について省みる。これに徹した結果が客観性になり得るのかもしれない。

自分の視点を検討するとは、自分が見ている景色は実はカメラのレンズ越しだと知るところから始まる。枠の外にも景色は広がっているにもかかわらず、私たちはある範囲を捉えることしかできない。それを狭い見方と言うこともできるけれど、ほかならない自分の目で見るとは、限界を生きることであり、それが私たちの原点であり主体性の始まりだ。

問題は、見たものが世界のすべてだと思い込んでしまうことだ。その錯覚に気づくには、カメラをどの位置と高さと角度で構えているからその景色が見えてくるのか、を知るかにかかっている。自分にとってあまりに当たり前すぎることを改めて捉え直すのは難しい。

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