今の日本人を生きづらくさせている「抑圧」の正体 なぜ人は他人の話を自分ごとにしてしまうのか

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だからこそ、自分の行っているジャッジのあり方を知らなくてはいけない。いわば撮った写真から「何をどのようにどこから撮っているか」の観点を探るわけだ。

相手の話を「私の話」として聞いてしまうとき、「私」は必ずジャッジしている。相手の話に対して、「それはあなたの言い方が悪い」だとか善悪正誤をつけ、アドバイスをし、挙句の果てには「どっちもどっちじゃないか」と諭したりする。

どれもこれも無自覚にやってしまう。つまり深く考えているわけではなく、自動的な反応として言葉を羅列している。

自分の解釈が善悪正誤を決めている

私たちは物事をジャッジするとき、善悪は対象に属していると思っている。相手がいいことをしたから、それを「良い」とし、悪いから「悪い」と判断したと。そうではない。

自分の解釈が善悪正誤を決めているのだ。あなたが誰かの行いや発言に「善悪」をつけたとき、そこで明らかになるのは、あなたが長年培ってきた価値観であり信条だ。それはどのようにして身につけたのだろう。

赤ん坊の頃は何をしても「すごいね」「よくできたね」と誉められたはずだ。いつしか「それはしてはいけない」「正しいやり方でしなさい」「そんなこともできないの」と言われるようになる。とはいえ、「それはいけない」が車道に飛び出ようとする子供を危険にさらさないための咄嗟の制止であれば、生き死にに基づいた問答無用のジャッジであるから是非は問えない。

ところが、言葉をうまくしゃべるようになるくらいから、次第に社会の枠内での善悪にかなうかどうかで判断されるようになる。「みんなの迷惑になるから静かにしようね」とか「そんなことしていると恥ずかしいと思われるよ」といった、柔らかい物言いでありながら、身体をきっちり拘束する言葉を耳にするようになる。

そのジャッジはそれぞれの親が身につけた考えに従っている。私たちは自分の体験を親や周囲に教わった善悪正誤の枠に従って分類するようになる。誰でも怒られるより誉められる方が嬉しい。

そうして覚えた通りの判断をし行動するとさらに「いい子だ」と評価されるので、「これでいい。これが正しいのだ」と教わったことを信念に置き換えて、しっかりと身につけるようになる。こうした家庭の中で養われる善悪正誤のコンセプトの背景にあるのは社会や文化、ひいては歴史、風土が培った慣習だ。

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