栗山監督が口を出すより判断に専念する納得理由 自分本位と気づかぬままコーチの職域を侵す懸念
監督になったばかりの私は、「栗山ごときがなんで監督をやるのだ」との批判を受けました。選手としての実績は心もとないのですから、これはもうしかたがありません。
2013年に大谷翔平が入団し、彼を二刀流で起用すると、猛烈な向かい風を受ける日々がやってきます。身体ごと吹き飛ばされそうな批判を全身に浴びたことも、一度や二度ではありません。
大谷翔平がプロ初勝利をあげた日
記憶に刻まれた出来事があります。
2013年6月1日のファイターズ対中日ドラゴンズ戦で、大谷翔平がプロ初勝利をあげました。試合後、吉村浩チーム統轄本部長(当時)が、「監督、何十年後かにこういったことを評価してくれる人が、必ず野球の世界にいるという風に思いますから」と言ってくれたのです。
大谷はピッチャーに専念させるべきだ、いや、バッターとしてのほうが大成するといった二刀流への批判は、1勝したぐらいでは消え去りません。1敗すればまたすぐに大火のように燃え盛る。「これからも様々な批判はあるでしょう。でも、いつかきっと、野球界のためになる決断だったと評価してくれる人が現われますよ」とも、吉村GMは言ってくれました。
誰かが「これは良くない」、「これは悪だ」と言うのは、その人の感覚に左右されているところがあります。感覚ではなく客観的材料をもとに評価を下す人は、相手が紊得できる材料を提示できるはずで、単に「これはダメだよ」と指摘するだけの人は自分の感覚や価値観にそぐわないから否定をする――そうやって考えると、周りの意見が気にならなくなりました。文句を言われても落ち込む必要はない。「どうしてそういうことを言われたのか」について想像力を働かせて内観して、そのあとは深く苦しまなくてもいいのだと、いまは感じています。
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