栗山監督が口を出すより判断に専念する納得理由 自分本位と気づかぬままコーチの職域を侵す懸念
そんなときに出会ったのがこの言葉です。荻生徂徠は徳川8代将軍の吉宗公の信任を得た人で、「ある分野に熟達していると、たとえ自慢をしなくても、人情の常としてその人を見下して意見を聞き入れようとしない。下の者の意見も素直に吸い上げることができるように、ある分野に熟達しないほうがいい」と説いたのでした。
やるべきは口を出すことではなく判断すること
私がバッティングを猛烈に勉強したとします。バッティングコーチに「この選手のバッティングを修正するのは、こういうアドバイスがいいですよね」と聞かれた私は、「そうだね」と答えながらも頭のどこかで「いや、こうじゃないか?」と考えたりする。自分が一生懸命に身に付けた理論を、どうしても活用したくなります。おそらくは、実際に口を出してしまうでしょう。自分本位と気づかないまま、コーチの職域を侵してしまうのです。
コーチにはそれぞれに考えかたがあり、コーチを任命したのは他でもない私です。
ならば、彼らを信頼して任せるべきでしょう。私がやるべきなのは口を出すことではなく、コーチの話をしっかりと聞き入れ、それでいいのかどうかを判断することなのです。
コーチ陣にはいつも、「僕より野球をよく知っているから、ここで仕事をしてもらっているのだよ」と伝えています。自分を卑下しているわけではなく、彼らを持ち上げているわけでもなく、客観的な事実としてそう考えています。コーチの意見を聞くことに、ためらいはありません。
だからといって、コーチに任せきりにはしません。最終的な判断を下し、その裏付けとして勉強を重ねます。ただ、取り入れた知識をそのまま自分のものにするのではなく、「こういう考え方もある」というレベルでとどめておきます。
言い換えれば、基礎を蓄えておくということでしょうか。正しい投げかたや正しい打ちかたというのはあるわけで、どこまでを基礎として、どこから先を応用とするか。
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