プロ野球を選ばなかった男が歩んだ激動の道 小さな大投手・山中正竹は球界の第一人者に
長嶋茂雄(立教大学)が通算8本という東京六大学リーグの最多本塁打記録(当時)をひっさげて読売ジャイアンツに入団するのが1958年。スーパースターの登場によって大きく時代は変わっていくが、それ以前はプロ野球よりも東京六大学のほうが、人気でも実力でも上回っていたという。
1947年4月、大分県で生まれた山中正竹が大分県立佐伯鶴城高校から法政大学に入学したのは、1966年のこと。その前年に日本で初めてのドラフト会議が行われている。高校時代に甲子園の土を踏むことはなく、本人も「大学で活躍できるとは思っていなかったし、1回くらい神宮球場のマウンドに上がれればいいと考えていた」ほどだ。
しかし、大学4年間で48勝を挙げ、法政大学に3度のリーグ優勝をもたらした。1学年上の田淵幸一(元阪神タイガースなど)、富田勝(元南海ホークスなど)、山本浩二(元広島東洋カープ)、同期の江本孟紀(元阪神タイガースなど)らとともに、法政大学野球部の黄金時代を築いた。ライバルである明治大学には、「燃える男」星野仙一(元中日ドラゴンズ)がいた。山中が記録した48勝という通算最多勝利数は、いまだに破られていない。
”小さな大投手”にとってのプロ野球
先輩の田淵、山本、富田は「法政三羽烏」と騒がれていた。体格もよく(田淵は186センチ、山本は183センチ)、プレイのスケールもまた大きかった。
「バッテリーを組んでいた田淵さんはプロに行きたがっていたし、まわりの空気も『頂点を目指すならプロで』というふうに変わっていましたね」
だが一方で、学生野球こそアマチュアの神髄であると考える人々も、まだ数多く存在していた。
「プロ野球よりも大学野球のほうがピュアだという雰囲気は残っていました。『(学生野球の父と呼ばれた) 飛田穂洲の全集を読んでおかなきゃダメだ』と言われたりして、私もそういう考えが刷り込まれて、プロ野球は自分とは別の世界にあるものなんだと思っていました。
当時は、先発完投が当たり前。ほかは敗戦処理か二軍かだった。そういうのを見て、自分はプロ野球タイプではないと割り切った考えを持っていました。プロ野球でやっていける体ではないのだと」
山中は、身長が170センチしかなかった。彼が「小さな大投手」と呼ばれたのは、ピッチャーとしては小柄な体で強打者をなぎ倒していったからだ。
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