プロ野球を選ばなかった男が歩んだ激動の道 小さな大投手・山中正竹は球界の第一人者に

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まだオリンピック競技に野球が採用されることなど考えられなかった時代。プロ野球という選択肢を消した山中にとっては、自然な考え方だった。

「チームは和歌山にありましたが、野球を終えたら、東京でも大阪でも勤務地は選んでいいと言われていました。『野球で日本一になる』とか『将来は指導者になろう』なんて、少しも思わなかった」

ところが、ある人物との再会によって、運命が微妙に変わり始めた。法政大学時代に指導を受けた松永怜一が、住友金属の監督として招聘されたのだ。

恩師をサポートする形で、山中は7年間ユニフォームを着ることになる。最後の1年は助監督、その前は助監督兼選手、その前はコーチ兼選手。ピッチャーとしてマウンドに上がりながら、松永の参謀役をつとめた。

29歳で現役を引退した時点で、野球人生にピリオドを打ったつもりだった。しかし、サラリーマンとしての業務に慣れたころ、野球部監督就任の打診があった。山中は固辞し続けていたが、引き受けることになる。

「どうしても山中に監督になってほしい、と言われました。和歌山で監督をするか、サウジアラビアのパイプ工場に行くか。二択なら、どうする?と」

山中は期限などの条件を出したうえで、ついに監督就任を受諾した。ユニフォームを脱いだはずが、再び野球の世界に戻ることになった。

選手から学びながら築いた監督像

指導者として、都市対抗、日本選手権で優勝を果たした山中は、その後、世界の舞台で戦うことになっていく。1988年のソウル大会はコーチ、1992年のバルセロナ大会では監督として、オリンピックの日本代表を率いた。

ソウル大会のメンバーには、野茂英雄(元近鉄バファローズ)、潮崎哲也(元西武ライオンズ)などがいた。バルセロナ大会は、杉浦正則(日本生命)、小久保裕紀(元福岡ダイエーホークス)らとともに戦った。

「日本とは異質の野球に対して結果を求められるなかで、社会人や大学のトップ選手と一緒に経験を積むことができました」

銀メダルと銅メダルを獲得したこの8年間で、山中はメダル以外に何を手にしたのか。

「私は教え子という言葉は嫌いです。住友金属のときも、代表のときも、選手から教えてもらうことが多かった。甲子園のスターはこうして育ってきたのか、実績のない高校からでもこんな選手が出てくるのか、と。私が伝えることよりも教わることのほうが多かったんです」

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