あの家康を翻弄「名将・真田昌幸」の裏切り処世術 「こんな部下は嫌だ」家康を激怒させた寝返り

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大軍を相手にすることが決まった昌幸は、徳川の大軍を上田城におびき寄せて戦うことを選びました。そして上田城下に「千鳥掛」と呼ばれたバリケードを大量に設置します。他に何をしていたのかと言えば、悠々と囲碁を打ちながら徳川軍の到着を待っていたとか……。

いよいよ、その日がやってきました。上田城に徳川の大軍が攻めてきます。開戦と同時に、まず動いたのは真田です。昌幸の息子・真田信之は別動隊を率いて徳川軍と交戦します。その目的は、城への誘導でした。「敵に入城を許してはいけない」のが基本ですが、昌幸はわざと入城を誘い、狭い場所で少数精鋭で戦おうとしていたのです。

家康、いいようにやられる

一方徳川軍は、数で勝るうえ、誘導されているとは気づかず悠々と上田城内へ侵入します。彼らは二の丸へ放火しようとしたのですが、家臣の間で「火をつけたら中の味方が出てこられなくなって危ないだろ!」と反対が出て中止になりました。戦ではまず城を焼いて丸裸にするのが当時の常識でしたから、実戦経験の少ない武将が多かったのでしょう。

このような調子で、徳川軍の兵たちは指揮官たちの思うように動いてくれませんでした。そして徳川軍が真田軍に苦戦を強いられている中、「このときを待っていた!」と、信之の別動隊が側面を攻撃。徳川軍は総崩れになりました。

やむなく徳川軍は撤退しますが、ただで帰してくれるほど昌幸は甘くありません。撤退時には昌幸が設置した千鳥掛に退路を阻まれてスムーズに進めず、徳川軍は350人ほどが戦死する大敗を喫しました。皮肉にも、家康の投資で生まれた上田城が家康を苦しめたのです。

徳川軍を撃退した昌幸は、その後どうなったのでしょうか?

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当然、「許せん!」と徳川・北条連合軍の猛攻撃に遭いますが、なんと今度は彼らと対立した豊臣秀吉に急接近。秀吉の協力を取りつけて戦いに備えたのでした。すると、家康と秀吉もやがて和平を結び、昌幸も最大の窮地を脱したのです。

なお、上田城の戦いには「第二次上田城の戦い」もあり、こちらは関ヶ原の戦いに関連して発生します。昌幸と幸村が家康の息子・徳川秀忠の軍勢を食い止めた戦として知られています。ここで秀忠は城を落とすことに苦戦し、秀忠が関ヶ原の戦いに遅れる原因をつくったという話は有名です。

もっとも、関ヶ原の戦いで西軍が敗れたため、西軍に味方した昌幸・幸村は不遇の時を過ごすことになります。積み重なった両者の因縁は、幸村の人生最大のハイライトといえる「大坂の陣」まで持ち越されるのです。

齊藤 颯人 歴史ライター

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さいとう はやと / Hayato Saitou

上智大学文学部史学科卒業。「歴史研究の成果を楽しく、わかりやすく伝える」をモットーに、歴史解説や大河ドラマ関連取材、研究者へのインタビューなどを数多く担当。主な執筆・制作協力書籍に『一冊でわかる鎌倉時代』『一冊でわかる江戸時代』(河出書房新社)などがある。

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