あの家康を翻弄「名将・真田昌幸」の裏切り処世術 「こんな部下は嫌だ」家康を激怒させた寝返り

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たった数年で「上杉→北条→徳川」とボスを次々と変える昌幸。しかしこれは、裏返せばそれほどの力を真田家が持っていたということのあらわれなのです。事実、昌幸の寝返りは戦況を一変させます。昌幸の活躍で家康は劣勢を一気に覆し、北条と和平を結ぶまでになったのです。

しかし、家康も超やり手。昌幸に利用されるだけの男ではありません。北条が撤兵の条件に、昌幸の持つ沼田・岩櫃城の明け渡しを要求したところ、家康はこの条件にあっさり「OK!」を出してしまいます。「せっかく活躍したのに、なんで城取られるん……?」と昌幸が感じたことは確実。

そこで、昌幸は実力行使に出ます。城へ訪れた北条方の使者を斬り捨てると、家康の度重なる開城要求を拒否。挙句の果てに、当時家康と信濃で争っていた上杉景勝のもとへ寝返ったのです。まさに、清々しいほどの裏切り劇でした。

家康大激怒。そして始まる第一次上田城の戦い

あっさり家康を捨てた昌幸。しかし、家康は決して昌幸を冷遇していたわけではないようです。むしろ、上杉軍との最前線に位置していた昌幸は、家康にとって欠かせない存在でした。そのため昌幸への支援は惜しまず、家康による多額の投資によって誕生したのが新たな真田家の拠点・上田城だったと言われています。

目をかけてきた昌幸に裏切られた家康は「この恩知らずめが!」と大激怒。1585年8月、計7000とされる兵を、昌幸のいる上田城へ向けました。対する真田軍の兵力は、わずか2000ほど。

このとき昌幸が頼りにしていたのは、景勝率いる上杉軍の救援でした。ところが、景勝は当時他勢力と交戦中で手一杯。なんとか出してくれた援軍も洪水のために到着が遅れたと言われています。つまり、圧倒的な兵力差がある中、「第一次上田城の戦い」が幕を開けたのです。

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