「コオロギ給食」への批判が珍しく納得できる理由 昆虫だけでなく多岐にわたる“苦情の成分"
真っ先に挙げられる論点は、「コオロギという食品についての評価はどうなのか」「コオロギの安全性や衛生面は大丈夫なのか」の2点。前述したFAOの発表もタンパク源として認められるというものであり、安全面の担保やリスク責任を含むものではないようです。また、国としても使用する際の法律やガイドライン整備が進んでいないという段階であり、「時期尚早」と見る人がいるのも仕方がないでしょう。
次の論点は、「なぜ子どもの給食でなければいけないのか」「未熟な子どもに選択させるのはおかしい」。これは当然ながら「給食でなければいけない」という理由は考えづらく、もし食糧問題を引き合いに出すのなら、それ以前に「給食を残さない=フードロスを減らす」ことを子どもたちに教えるべきという正論が浮上します。
さらに保護者の視点で見ると、「自分が食べたことのないものや、あまりよく知らないものを子どもに食べさせたいと思うのか」と言えば大いに疑問が残ります。このあたりは学校サイドの読みやフォローが甘かったように見えますし、アレルギーに関する保護者への通知という点も含め、現段階での給食導入は不安を募らせるものだったのかもしれません。
「コオロギ」を特別視する不自然さ
そして批判の中でも的を射ていると思われるのが、「なぜコオロギだけを推しているのか」という声。「急にコオロギを推しすぎていて何らかの思惑や利権を感じる」と疑われても不思議ではないほど、フィーチャーされていることに気づかされます。
コオロギの導入には、枕詞のように「食糧問題の解決に期待されている」というフレーズが使われますが、このアプローチに「食糧問題を大義名分にするな」と引っかかってしまうのでしょう。なぜ食糧問題を解決するのがコオロギでなければいけないのか。あるいは、もう少し広げて昆虫食でなければいけないのか。
前述した豊富なタンパク質、飼料の少なさ、省スペースなどのメリットや、「すでにアジア、アフリカ、南米で20億人が食べている」などの理由を掲げられても、日本人としての食習慣やこだわり、優先すべき問題などが違うから、素直に「じゃあ昆虫を食べる」とはならないのでしょう。
日本における食糧問題なら、まず食糧自給率を上げることや、フードロス問題を改善すること、過食の検証などを考えるのが自然な流れ。奇しくも牛乳廃棄問題がクローズアップされたばかりですが、未来に備えること以上に、今すぐ取り組んでほしい問題があるからこそ、「コオロギより先にやることがあるだろう」と言いたくなってしまうのです。
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