おそらくその答えは、与党である人民行動党が従来どおりの方法で後継者を選ぶだけになるだろう。もちろんシンガポールの優秀で経験豊かな官吏や大臣の中核グループは層が厚い。それでも上位ポストに自分の家族の者が就いて目立つことに関してリー・クアンユーがなぜか敏感だったおかげで、この問題はオープンなものになっている。
リーはシンガポールに関する報道をめぐって、特に1980年代半ばから国際メディアとたびたび争っていた。英ケンブリッジ大学で教育を受け弁護士となった彼は、法律を用いて批評家を脅すことに慣れていた。シンガポールの法廷で敗北する可能性はないに等しいということをよく知っていたのだ。
「身内びいき」と批判されるのを嫌った
私が『エコノミスト』誌編集長として勤務していた頃(1993~2006年)、さまざまな場面でそのような脅しに直面した。「身内びいき」という言葉そして概念を、リーは決して容認できなかった。彼はシンガポールを実力主義の国として立ち上げ、そこでは明白で容認されたルールの下の競争が第一であった。息子が首相になり、義理の娘ホー・チンが国の巨大投資会社テマセクの社長となったとき、「自分たちの利益のため以外の何ものでもない」というメディアの表現を許容することはできなかった。もっともらしい委員会を発足させ、身内びいきでないことを証明しようとし、それに反する発言をあえてした者の告訴に乗り出した。だが、これは、まったく筋が通っていない。
1965年にマレーシアから排除された小さな多民族社会として、もろさ、正統性・信頼の欠如、そして民族紛争を抱えてシンガポールは誕生した。1980年代から1990年代にかけて、これらの地域的暴動への言及、また社会的信頼を喪失して紛争に逆戻りする可能性がつねに存在することへの言及によって、独裁政策の維持をリーはたびたび正当化していた
だから長男にバトンを渡す際には、可能なかぎり最も論理的なやり方でそのリスクに対処したといえるかもしれない。もしシンガポールの創建者を信じ、彼を正統だと見なすならば、その創建者の息子以上に信頼できる者がいるだろうか?父親は最初は「上級相」として、次に顧問として政界に残りつつ、息子を数々の重要なポストに就かせてその手腕を公に証明させたのだった。
しかし、次に何が起こるのかという問いの答えは見えないままだ。リー・クアンユーは、後継者問題を先送りにした。彼の息子も、答えを出さなければいけなくなるだろう。
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