「今川家の滅亡」徳川家康は氏真をどう攻めたのか 義元の死をきっかけに権力が揺らぎ始める

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4月下旬、信玄は駿府を退き、甲府に戻った。家康も掛川城を攻めあぐねており、今川氏真と和解の道を模索していた。5月上旬、氏真は城を開き、北条氏を頼ることになる。ここに、今川氏は滅亡した。

氏真は北条氏を頼るが、その後、家康の庇護下に入る。晩年、氏真は品川に屋敷地を与えられて過ごすことになる。品川に屋敷を与えたのは、氏真の話が長いので、家康が煩わしいとしてこれを遠ざけたという説もあれば、港町として繁盛していた地を与えたという説もある。

ちなみに江戸時代には、今川氏は高家(儀式や典礼を司る役職)として、幕府に仕えることになる。家康は、豊臣秀吉によって追放され困窮していた織田信雄(信長の次男)も庇護し、御伽衆(主君の側近くにあって話し相手をする役)として養っている。家康は狸親父として有名であるが、これらのエピソードからは誠実な人柄が窺えよう。

一方で徳川と今川の和睦に武田信玄は不満を露わにし、織田信長に不満を漏らしている(3月23日)。信玄が4月に甲府に退いたのは、この和睦が成立すれば、自身の立場が危うくなると感じたからであった。

北条氏に攻勢をかけた信玄

甲府に戻った信玄は、北条氏に攻勢をかけ、武蔵国や相模国に軍勢を派遣。5月から10月にかけて、北条方の城(10月には小田原城を攻囲する)を攻めたり、今川の旧臣が籠もる大宮城(富士宮市)を攻め、これを攻略(7月3日)したりしている。

それは、信玄が再び駿河に侵攻するための布石であった。第1次駿河侵攻と同じく、北条氏に出てこられては敵わない。そうならないように、武蔵や相模に進出して、北条氏を撹乱、時に撃破したのである。

一連の作戦を終え、甲府に帰還した信玄は、永禄12年12月、駿河に攻め込む。駿河には、今川旧臣や北条氏の家臣たちがいまだ残存していた。

蒲原城(静岡市、北条氏信が守備)を攻め落とした信玄の軍勢は、同月13日に駿府に攻め入る。今川館に籠もっていた岡部正綱は武田に降伏する。翌13年(1570)1月27日には、花沢城(静岡県焼津市)を攻略。他の城も次々に落とし、駿河の中西部を武田氏の勢力下に収めた。

濱田 浩一郎 歴史学者、作家、評論家

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はまだ こういちろう / Koichiro Hamada

1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『あの名将たちの狂気の謎』(KADOKAWA)、『北条義時』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)など著書多数

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