「今川家の滅亡」徳川家康は氏真をどう攻めたのか 義元の死をきっかけに権力が揺らぎ始める
2人は不穏な動きをあることを宗能に伝えた。宗能は驚き、家康に援軍を依頼。家康が援軍を差し向けると、宗能は援軍を本城に入れたので、宗能に対する謀反は起こらなかった。
不穏な動きをした宗益は切腹させられ、宗政は追放処分となる。それを見て、家康自ら、掛川に出陣する。そして天王山に陣をしき、各所に砦を築くのだ。掛川城から今川勢が討って出てくることもあり、激しい戦が展開された。
『三河物語』には、徳川方の武士たちの活躍が描かれている。椋原次右衛門尉、大久保忠佐が敵を討ち取ったこと、小坂新助という武士は、敵の正面の土塁にまで攻め入って、そこで敵を討ち、無事に引き揚げたことが記される。武功により、名を挙げた者はほかにもいたようだ。
椋原次右衛門尉は、家康に「今日、組み討ちで、敵を討ち取った」ことを言上する。すると大久保忠佐が「いいや、今日、手柄をあげた者で、組み討ちで敵を殺した者はおりません。そなたが討ち取った者も、既に鉄砲に当たって、死んで倒れていた者ではないか。その首を取ったのだ。今日の手柄は、皆、死人の首ばかりだ」と口を挟む。
内藤正成も「今日の手柄は、私を含め、全て死人の首」と言上する。その話を聞いていた人々は「内藤と大久保の言い分はもっともだ。両人の性格そのままだ」と言い合ったという。
なかなか落ちなかった掛川城
いたずらに武功を誇るのではなく、正直な性格ということだろう。徳川方の奮闘にもかかわらず、掛川城はなかなか落ちなかった。城は猛攻によく耐えたのだ。
一方、武田信玄も駿河に侵攻したものの、小田原の北条氏が今川氏の支援に回ったため、窮地に陥っていた。信玄が頼ったのは、織田信長であった。
信玄は、信長を通じて、足利義昭に働きかけ、越後の上杉謙信と和睦を結ぼうとしたのだ。春になり雪解けとなると、上杉氏が信濃方面に進出してくることを信玄は防ごうとしたのである。永禄12年2月には、室町幕府将軍・足利義昭により、武田・上杉両氏に和睦を命じる書状が発給された(和睦はその年の7月頃に成立したと言われる)。
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