「生きづらさ」感じる社会をつくる1つの価値観 自分の価値を見失わず、生き抜くための思考法

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先述のとおり、現代社会ではあらゆるものが商品となり、お金を出せば何でも手に入れることができるようになりました。確かにそれは大変便利で、だからこそ多くの人々が居住地、出自などに関わらず、一定の水準で物質的に豊かな生活を送れるようになりました。しかし、お金が万能ツールとして機能すればするほど、失われてしまうものがあります。

例えば、野菜でも果物でも味は一緒にもかかわらず、見栄えが悪かったり、規格から外れているというだけの理由で商品にならないことが起こります。つまり、いつのまにか、そのもの自体の持つ価値ではなく、商品としての価値が農作物を判断する基準になってしまうのです。

つまり、商品化が進むことで失われるものとは、もの本来の価値を認める視点だと言えます。そして、それは当然ながら、農作物だけに向けられるものではありません。

「命か、経済か論争」にある落とし穴

平成以降、日本社会は流動性を高め「自由な働き方」を推し進めるという名目で、官から民への構造改革が行われてきました。この社会の動向は、まさに「労働力という商品」としてのまなざしを、社会が人々に向けてきた過程だったと言えます。

その結果、僕たちは現代社会を生きる基準として、「商品としての価値」を内面化してしまった。宗教学者の安藤泰至は、いわゆるコロナ禍があらわにした現代社会の問題を以下のように述べています。

【2024年4月10日13時56分追記】初出時、上記で「宗教学者の島薗進」としていたのは誤りでした。お詫びして「宗教学者の安藤泰至」に修正いたします。

「そんなもの、命に決まっているだろう」「経済を動かすのは生きている人間なのだから、命あっての経済だろう」「両者が比較対象になるということ自体がおかしい」というのはなるほどその通りである。ただ、「命か、経済か」という言葉で実際には何が意味されているのか、ということをもう少し考えてみる必要がある。経済が回らなければ、倒産や失業が相次ぎ、自殺者も増えるだろうし、一気に貧困に陥ることで文字通り失われる「命」も出てくるだろう。(中略)つまり、「命か、経済か」というときの「経済」というのは実は「(経済を回す人々の)命」なのであって、先の言葉は「ある種の命と別種の命のどちらを優先するか」ということ、具体的にいえば「もはや働くことで経済を回す主体にはならない高齢者の命」と「働くことで経済を回す主体になる比較的若い人々の命」のどちらを優先するか、と言い換えることができる。ここにはすでに本書で繰り返し問題になる「いのちの価値をめぐる序列化」「いのちの選別」という事態が潜んでいるのだ。(安藤泰至・島薗進編著、川口有美子・大谷いづみ・児玉真美著『見捨てられる<いのち>を考える 京都ALS嘱託殺人と人工呼吸器トリアージから』15-16頁)

【2024年4月12日9時12分追記】初出時、上記で〈「いのちの選別」という自体〉としていたのは誤りでした。お詫びして〈「いのちの選別」という事態〉に修正いたします。

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