「生きづらさ」感じる社会をつくる1つの価値観 自分の価値を見失わず、生き抜くための思考法
近代化の大きな要素には、近代科学をベースにした都市化があります。近代都市の生活は分業体制が敷かれ、合理的かつ効率的にそれぞれが自分の仕事さえやっていれば好きな時間を持つことができるようになりました。
多くの人がテレビや冷蔵庫、洗濯機、エアコン、パソコンなどの電気機器を所持することができる世の中になったのです。中でも冷蔵庫は食べ物を保管し、洗濯機は放っておけば服を洗ってくれることにおいて、生活の効率化をもたらしてくれました。この点だけ考えても、都市化は僕たちの生活水準を圧倒的に向上させてくれたことがわかります。
生活水準の向上は戦後の経済成長期に達成されたことであり、これ自体はすばらしいことです。ただ、僕が問題だと思うのは、物質的な豊かさと引きかえに、「僕たちの生」は「商品を選ぶ」ことと同じ意味になってしまったことです。
お金を出して商品を買うことは消費財を充実させ、生活を物質的に豊かにしてくれますが、自分たちの生き方を商品の中だけに限定してしまったのです。
そもそも商品は他者のニーズがなければ成立しません。つまり、生き方さえも、誰かのニーズがなければ選んではいけないかのように思わされてしまうようになったのです。商品から生き方を選ばなければならないとしたら、「自らの生」の意味はだいぶ狭いものになってしまうことは明らかでしょう。
「自由」な生き方はどこまで自由なのか
つまり近代的な生とは、商品から自由に選ぶことができるような生き方だと言えます。けれど、近代以前の社会のすべてが地縁や血縁、身分制度によって規定されていたことを考えると、近代になって圧倒的な自由を得たことも確かです。近代化によって人々は「しがらみ」から解き放たれ、個人個人が己の責任において人生を選択できるようになりました。
ただ、「しがらみ」からは自由になりましたが、その自由は商品の中から選ぶ自由だったということです。僕が目指す「地に足をつける」とは、「自らの生」を商品からも商品以外からも自由に選ぶことができるようになることを意味します。そのためにはまず、商品以外という選択肢が存在することを知ることが必要です。これが現代社会における外部です。
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