幸福を哲学で突き詰めた人にこそ見えている視点 偶然でなくどうつかみ取るか、それが問題だ
そう考えると、ずいぶんわかりやすくもある。とはいえ、それだけで終わらないのが難しいところ。哲学で「幸福」を論じる方々は多くの場合、「幸運」を「幸福」と呼ぶことに反対しているからだ。
たとえばラッセルの代表作である『幸福論』の正式タイトルは『幸福の獲得』であり、そこに込められた意図を彼は「幸福は、きわめてまれな場合を除いて、幸運な事情が働いただけで、熟した果実のようにぽとりと口の中に落ちてくるようなものではない」と語っているという。
幸福は自ら獲得するもの
岡本氏によれば、ここで表明されているのは、「幸福」が他人からもらったり、偶然に与えられたり、あるいは神から授けられたりしたものではないということ。自分の「力を発揮する」ことによって、自ら獲得するものだということだ。なお、以下のようにフランスの哲学者アランの『幸福論』も、この点では同じことを語っている。
スイスのヒルティによる『幸福論』でも、この考えは変わらない。ヒルティの『幸福論』は、ラッセルやアランを含めた「三大幸福論」のなかで宗教的な色合いを帯びたものだが、それでも冒頭の「仕事における幸福」を読むと、「自己実現」を強調していることがよくわかると岡本氏は指摘している。
ヒルティのこの主張が、現代にも十分通用するものであることに驚かされる。すなわちそれも、「哲学は広い視野と長いスパンでアプローチする」という岡本氏の考えに通じるものではないだろうか?
いずれにしても、さまざまな幸福論に著された重要な特徴として、「幸運」と「幸福」の違いを確認することが大切だというわけだ。
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