幸福を哲学で突き詰めた人にこそ見えている視点 偶然でなくどうつかみ取るか、それが問題だ

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就職活動している大学生に「なぜ就職活動するのか?」と問いかけたとき、多くの学生は、「いい会社に入るためだよ」と答えるかもしれない。さらに、「なぜいい会社に入るのか?」と聞いたとしたら、「世間体がいい」とか「安定した生活ができる」とか、彼らはいろいろな理由を口にするだろう。

幸福と道徳は一致する

しかし、あらためて「安定した生活は、なんのためにしたいのか?」と聞いたとしたら、どんな答えが返ってくるだろう?

このように目的(「なんのため?」)を次々とたどっていき、もうこれ以上ないというような「究極的な目的」に達するとき、それをアリストテレスは「幸福」と呼ぶ。「幸福」は私たちが生きるとき、その究極的な目的(「最高のよきもの=最高善」)とされるわけだ。

<最高の善が幸福であり、より生きよく行為することが幸福と同じ意味である、ということにかんしては、ほとんどの人の意見が一致している。(引用者訳)(132ページより)>

幸福を「究極目的」とする考えは、一般に「幸福主義」と呼ばれている。人間は誰であれ、そのつど“よきもの”を求めて生きているが、そのなかでも最高の“よきもの”が「幸福」だというわけだ。

ただしその際には、「幸福」をどう考えるかが問題にもなるという。なぜなら、「善(よきもの)」というとき、そこには二義性があるからだ。

人によっては、感覚的な「快楽」こそが「よきもの」であるかもしれない。「快楽」こそがもっともよきものであり、「幸福」は「快楽」のうちにある、という考えもある。これを「快楽主義」と呼ぶが、アリストテレスはこの考えを退けている。

アリストテレスは「幸福」を理解するとき、「徳」と結びつけているというのだ。たとえば、「もっともよく、かつもっとも完全な徳にもとづく魂の活動が人間にとっての善となる」と述べているという。ここで「徳」と表現されているのは、「卓越性」を意味する「アレテー」だそうだが、人間にとっての「卓越性」が道徳的であることはたしかだ。

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