幸福を哲学で突き詰めた人にこそ見えている視点 偶然でなくどうつかみ取るか、それが問題だ

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<「幸福」と「道徳」を結びつけて考えることに、アリストテレスの「幸福主義」のポイントがあります。「道徳」に反した「快楽」を自分にとって「よきこと」と見なし、活動するような態度は、「幸福」とは呼べないのです。そのため、彼は、「幸福な生活は、まじめさを伴うものであり、遊びのうちにはない」と力説しています。(133ページより)>

正しく生きるためには幸福を求めるな

一方、幸福と道徳とが一致するというアリストテレス的な「幸福論」に正面から反対したのが、近代最大の哲学者と呼ばれるイマヌエル・カント。その基本的な考え方は、「一方の『幸福』が人間のやみがたい『欲望』にもとづくものであり、他方の『善(よきこと)』を求める道徳とは区別すべきだ」というものだそうだ。

<人間を幸福にすることと人間を善人にすることとは、また人間を賢く自分の利に聡くすることと人間を有徳にすることとは、まったく別。(134ページより)>

カントは、人間が自然本性上「幸福」を求めることは否定しない。欲望(カントはこれを「傾向性」と呼んだ)を持ち、それにもとづいて「幸福」を求めるからだ。しかし、こうした「幸福」は、「善(よきこと)」」を目指す道徳とは全く異なる。

たとえば、巧妙に嘘をついて仕事が成功し、裕福になったとしよう。その場合たしかに、仕事が成功したという点においては、自分の欲望を満足させることができ、他人からも称賛されるかもしれない。

とはいえ、そうした「幸福がよきものか?」と問われたなら、多くの人は躊躇することになるのではないだろうか。道徳的な「善(よさ)」を無視して「幸福」を手に入れたとしても、居心地の悪さを感じずにはいられないはずだからだ。

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