同盟といえば、今川氏も武田氏と北条氏と同盟を結んでいる。「甲相駿三国同盟」とのちに呼ばれる軍事同盟だ。
桶狭間の戦い後、家康がまだ織田軍と争っていたときに、今川氏が援軍を送れなかったのも、氏真が同盟を重視して北条氏のサポートを行っていたからである。当時は、上杉氏が関東へ侵攻を開始しており、北条氏は同盟国の援軍を必要としていた。
ところが、14年続いた「甲相駿三国同盟」も破綻するときは、あっけない。永禄11(1568)年12月、武田信玄は駿河国へ侵攻。家康と密約を結んだうえで、かつての同盟国である今川氏に、容赦なく牙をむいている。そんなふうに同盟国でも決して油断できないのが、戦国時代だ。
「強き者に逆らわない」
そんななか、家康は信長との同盟を守り続けた。それも当初こそは対等な同盟だったが、信長が勢力を伸ばすにつれて、様相が変わってくる。武田氏からの防波堤として、家康は過酷な役割を背負わされて、次々と信長から難題を課せられることになる。
それでも、家康が信長を裏切ることはなかった。これこそが、家康が「律義者」とされるゆえんだが、やや違和感もある。家康は、人質とはいえ取り立ててもらった今川氏を裏切り、織田氏についている。「ただ律儀だったから信長との同盟を守った」とも言い切れないだろう。
ただ、家康は戦国時代を生き残るにあたり、ごくシンプルなことをやり抜いたにすぎない。それは「強き者に逆らわない」ということである。家康からすれば、なぜ他の者がそのことを徹底しないのが不思議に思っていたのではないだろうか。
家康は信長との同盟を実に20年以上も守り、信長が死ぬまで逆らうことはなかったのである。
【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』 (吉川弘文館)
柴裕之『青年家康 松平元康の実像』(角川選書)
二木謙一『徳川家康』 (ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』 (歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
大石泰史『今川氏滅亡』(角川選書)
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