今川を裏切る徳川家康、織田信長には従い続けた訳 戦国時代を生き抜くために貫いたシンプルなこと

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この牛久保城の戦いに始まり、5月には八名郡宇利や設楽郡富永口で、7月と8月には八名郡嵩山で、そして10月には設楽郡島田でと、家康は今川軍とたびたび交戦した。

氏真は怒り心頭で、6月11日の発給文書では「松平蔵人逆心」と家康を非難している。家康が離反した影響を受けて、今川方だった三河の国人衆らにも動揺が走り、松平方に転じる勢力が現れて、2つに分裂していく。

氏真が「三州過半錯乱」(6月20日、山本清介宛)、「三州錯乱」(7月20日、岩瀬雅楽介宛)、「参州忩劇」(11月7日、羽田神主九郎左衛門尉宛)と危機感を募らせていくのも、当然のことであった。

清洲城での「清洲同盟」がありえないワケ

そうして今川氏とバチバチと火花を散らしながら、『徳川実紀』によると、家康は清洲城に足を運び、信長を訪問。会見後に同盟を結んだとされてきた。いわゆる清洲同盟である。『徳川実紀』だけではなく、『武徳編年集成』をはじめとする江戸幕府の編纂した歴史書でも、家康は清洲城を訪れたとしている。時期は永禄5(1562)年の1月だという。

だが、ここまで記事を読み進めた読者ならばわかるように、今川氏と交戦していた家康が城を空けて信長を訪問することは、不可能である。また、家康が清洲城を訪れたという記載は『三河物語』『松平記』という戦国期に近い史料には見られない。信長側の動向を書いた『信長公記』でも、触れられていない。

当時、当主が顔を合わせて同盟を結ぶことがあまりなかったことも併せて考えると、清洲同盟はなかったと考えるのが自然だろう。ただし、永禄4年2月の時点で、家康と信長は和議を行っている。その意義は大きく、だからこそ、4月から家康は東三河の平定へと乗り出すことができた。

そして、家康との和議は信長にとってもメリットが大きかった。というのも、このころ、信長は美濃の斎藤龍興との戦を行っている。同時に三河で家康と戦うのは避けたかった。双方が自軍の戦いに集中するために、家康と信長は手を組んだことになる。

それが、攻守同盟、つまり「どちらかが攻められたら助けにいく」関係にまで発展するのは、少し先の永禄6(1563)年3月2日のこと。信長の息女である五徳と、家康の嫡男である竹千代(信康)との婚約の成立がきっかけとされている。以後、家康は信長と強固な同盟関係を結ぶことになる。

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