今川を裏切る徳川家康、織田信長には従い続けた訳 戦国時代を生き抜くために貫いたシンプルなこと

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「またあるときは挙母の城へ押しよせ、多くを殺す。あるときは梅ヶ坪の城へ戦いをしかけ町を打ちこわす。あるときは小河へ戦いをしかけた」

つまり、挙母城や梅ヶ坪城(ともに愛知県豊田市)を襲い、小河(愛知県東浦町)へ進軍したほか、刈谷(愛知県刈谷市)などで、織田勢との攻勢を繰り広げながら、家康は西三河の平定に乗り出したことになる。ちなみに、このころ家康はまだ「元康」と名乗っていたが、この記事では「家康」で統一する。

妻子がいる駿府にも帰らず、かといって織田方にも味方しない家康は、さぞ不気味な存在だったに違いない。そんな家康の次なる決断は「信長との和議」だった。『三河物語』ではこう続けられている。

「そののち、 信長と和議を結び、この城々との戦はなくなった」

このときに家康と信長を仲介したのが、刈谷城や小河城(別名:緒川城、小川城)に拠っていた織田方の水野信元だったという。一方で「織田方の滝川一益が石川数正に和議を申し入れた」という説もある。

和議に至った経緯の詳細は明らかになっていないが、水野信元といえば家康の生母、於大の方の兄にあたる。わが子の身を案じる於大の方からの働きかけもあって、信元が動いて信長と家康を結んだのではないだろうか。

深まる今川氏との対立

西三河を平定した家康は、永禄4(1561)年2月に信長と和議を結ぶと、東三河へと進軍。本格的に今川氏と対立を深めていく。同時に、今川義元のあとを継いだ今川氏真は、発給文書を次々と発出している。4月14日には、次のような文書を発給した。

「去十一日於参州牛久保及一戦、父兵庫之助討死之由、不便之至」

去る永禄4(1561)年4月11日、東三河における今川氏の拠点である牛久保城を、家康が攻撃。今川方の真木兵庫之助定安(重信)が討ち死にしたため、氏真はその息子である真木清十郎(重清・定善)と真木小太夫(重基)に感謝状を送ったという。

この4月11日こそが、氏真にとっては、家康が謀反を起こした認識した日だった。今川方の鈴木重時と近藤康用にのちに宛てた発給文書で「去酉年四月十二日岡崎逆心之刻」と記し、怒りをあらわにしている(発給文書には4月12日とあるが、正確には4月11日夜半と思われる)。

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