徳川家康、17歳で見せた「桶狭間」直後の"驚く決断" 想定外の出来事にもあわてず、状況を鋭く読む

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桶狭間古戦場公園
名古屋市にある「桶狭間の戦い」の中心地(写真:T-Urasima/PIXTA)
NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送が始まり、「徳川家康」に注目が集まっている。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた徳川家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。
家康を取り巻く重要人物たちとの関係性を紐解きながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』の第5回は、家康の「桶狭間の戦い」直後に見せた冷静な判断力のすごさについて解説する。

衝撃だった今川義元の死

「ゆっくり急げ」

もともとはラテン語で「Festina Lente(フェスティナ レンテ)」。ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの座右の銘だったといわれている。

人生における大きな決断ほどそうだ。焦ってはいけないし、かといって、時機を逃してもいけない。ましてや、徳川家康の場合は、自分の人生のことだけではない。将軍になってからはもちろんのこと、青年のころから松平家を背負う当主として、家臣たちやその家族も含めて、命運を左右するような決断を下さなければならなかった。

永禄3(1560)年、桶狭間の戦いが起きると、人質として今川家の支配下にあった家康は、総大将の今川義元のもと、織田軍と戦うことになった。

ところが、家康が大高城で家臣たちと待機しているときに、あろうことか総大将の今川義元が、織田軍に討たれてしまった。合戦当日、5月19日の出来事である。まだ家康が「元康」と名乗っていたころだが、この記事では「家康」で統一する。

今川軍の兵力を思えば、義元の討ち死には、信じがたいことだったに違いない。だが、家康のもとには、伯父の水野信元から浅井道忠が使者として送られてきて、義元の討ち死は事実だという。さらに「織田勢が来襲する前に城から退くべし」と家康は使者から告げられている。

一刻も早く行動を起こさなければ、取り返しのつかない事態を招いてしまいそうだ。また、水野信元は、家康の生母・於大の兄にあたる。母が敵側の今川についているわが子の身を案じて、戦況をすぐに知らせたのだろうか。そんな思いもよぎったことだろう。

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