大河で話題「桶狭間の戦い」織田軍圧勝の2つの訳 今川軍はなぜ敗れたか、歴史的史料から探る

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それを見てから、信長は「それ、かかれ」と全軍に突撃を命じたのです。世間でよく言われたような迂回・奇襲攻撃(甫庵『信長記』)ではなく、信長は正面から堂々と攻め寄せたことが『信長公記』からわかります。

『三河物語』は桶狭間合戦を「敵の徒歩の兵は早くも数人ずつ山に登りはじめるので、義元軍はわれ先にと逃げ出した。義元はそんなことも知らずに弁当を食べていた。油断をしておいでになるうえに、土砂降りの雨であった」と記します。

そして、信長が「3000ほど」で攻めかかると、今川軍は我も我もと敗退し、今川義元は毛利新助により討ち取られたというのです。逃げるところを追い討ちをかけられ、多くの者が死んだと伝わります。

大軍(今川)が少数軍(織田)になぜ敗れたのか? これも昔から議論の対象となってきたことです。迂回・奇襲攻撃でなかったとすれば、なおさら、疑問として残ります。

その疑問を解消するために、さまざまな説が提示されてきました。織田軍が2000~3000よりももっと多かったとする説。江戸時代初期に編纂された軍書『甲陽軍鑑』の記述を基に、今川軍が乱取り(略奪)をしている最中に、織田が攻め寄せてきたのではとする説。さまざまな説があります。

ただし『甲陽軍鑑』は見直しは進められているとは言え、事実誤認もあるとして、史料として使うには問題視される場合もあります。

今川軍大敗の2つの要因

『信長公記』や『三河物語』という比較的信用できる史料から考えてみると、今川の大軍の敗因は、1つは油断があったのではないでしょうか。

そして、2つ目は、土砂降りの後に攻撃を受けたということもあるでしょう。物凄い雨は、人間の心を掻き乱し、地面に泥濘を生み、動きにくい状況を作ったはず。また、大軍とはいっても、すべてが戦闘員ではなかったでしょう。

前述したようなことが重なって、信長の攻撃により、混乱状態に陥り、脆くも今川軍は崩れ、敗退していったのではないでしょうか。

『三河物語』は、「元康が殿(しんがり=敗退する味方の最後尾で敵を防ぎ戦う)をしていたら、これほどの大敗北にはならなかっただろう」と想像していますが、元康が桶狭間に在陣していたとしても、結果はそれほど変わらなかったようにも感じます。

最悪の場合、元康も討ち取られていた可能性もありましょう。「大高城の番を元康に命じていたのが、今川義元の運のつき」と『三河物語』は記していますが、元康にとっては幸運なことだったかもしれません。

濱田 浩一郎 歴史学者、作家、評論家

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はまだ こういちろう / Koichiro Hamada

1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『あの名将たちの狂気の謎』(KADOKAWA)、『北条義時』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)など著書多数

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