大河で話題「桶狭間の戦い」織田軍圧勝の2つの訳 今川軍はなぜ敗れたか、歴史的史料から探る

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長らく通説となっていたのが、上洛説です。『信長記』(1611年に小瀬甫庵が執筆)に、今川義元は天下をとるために挙兵したと記されていたことから、江戸時代以来、上洛説が信じられてきました。ところが、『信長公記』や『三河物語』には、今川義元が上洛しようとしたとは書かれていません。 

『信長公記』には、桶狭間の戦いに至る過程が概ね次のように記されています。

信長は熱田より東方の鳴海城(名古屋市緑区)に山口左馬助を入れていた。ところが、山口氏は、信長に謀反心を抱いており、鳴海城に今川方の軍勢を引き入れたばかりか、大高城(名古屋市緑区)や沓懸城(愛知県豊明市)までをも調略で奪ってしまう。
今川義元は、鳴海・大高・沓懸城を守備するため、多数の軍勢を入れ置いた。織田信長もそれに対抗するべく、丹下・善照寺・中嶋・丸根・鷲津(何れも名古屋市緑区)に砦を築く。今川方の鳴海・大高城を分断し、その動きを封じるために、付け城(臨時拠点)を作った。今川方としては、鳴海・大高両城を確保するには、何より両城への補給が必要であろうし、点在する織田方の砦を除去しなければならない。

『信長公記』を見ていると、今川義元出陣の大きな目的はこれではないかと思うのです(もちろん、順調にいけば、尾張国の制圧も視野に入っていたでしょう)。

永禄3年(1560)5月17日、今川義元は沓懸(愛知県豊明市)まで進軍します。元康の役目は、大高城(鵜殿長照)に兵糧を入れる(補給する)ことでした。しかし、織田方の丸根砦と鷲津砦が行手を遮っていました。

そこを松平軍は突破し、兵糧を大高城に運ぶことに成功するのです。これが5月18日のことです。翌日、松平軍は、織田の将・佐久間盛重が守る丸根砦を攻めます。『三河物語』によると「元康、攻めよ」と今川義元からの命令があったようですね。

元康は「生来のせっかち」だった

同書には「生まれつき、気のはやる殿のことなので、すぐに攻めよせる」とあり、元康のことを、生来のせっかちであると記しています。丸根砦はすぐに落ち、敵の「家の子・郎党はほとんど殺した」とあります。鷲津砦もほどなく落ちました。

信長は、清洲城を出て、善照寺砦に入ります(善照寺砦へ進軍中に、信長は丸根・鷲津砦が落ちたことを知ります。ちなみに、善照寺砦は、前述の5つの砦の中でもっとも大きなものでした)。

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