大河で話題「桶狭間の戦い」織田軍圧勝の2つの訳 今川軍はなぜ敗れたか、歴史的史料から探る

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その頃、今川義元は沓懸城と大高城の間にある桶狭間山で休息していました。5月19日、正午頃のことです。

『信長公記』には、今川義元は鷲津・丸根砦を落としたことに大満足で、謡(能の台詞)を歌ったと言われています。

信長が善照寺砦に向かったことを知った織田方の佐々木勝通と千秋四郎は勇み立ち、兵300ほどで、今川義元の先陣に突撃し、返り討ちにあいます。それを聞いた今川義元は「我が矛先は、天魔鬼神も防ぐことはできない。満足だ」と述べ、またしても謡を歌ったというのです。今川義元がかなり油断していたことがわかります。

その気の緩みは、今川方の武将や兵士にもある程度は伝染していたのではなかったでしょうか。千秋四郎らが討死したことを知った信長は、中嶋砦に向かおうとします。

中嶋砦の周辺の路は狭く、しかも移動中の姿が敵(今川方)に露わになってしまうとして、織田の武将は信長を止めようとしますが、信長はそれを振り切り、中嶋砦に向かうのです。

信長を止める家臣たち

このとき、信長軍は2000に足りない兵数だったといいます。信長は中嶋に着くと、さらに先に進もうとするので、家臣はすがりついてこれを止めようとしました。

すると信長は家臣らに次のように言い聞かせたのです。

「今川の武者は、夜通しで大高城へ兵糧を運び、鷲津・丸根砦攻めを行い、疲れ切っている。我らはそうではなく、新手の兵。小勢だからといって、大敵を怖れるな。勝敗の運は天にあり。敵が攻撃してきたら退き、敵が退いたら攻めよ。敵を圧倒し、突き崩せ。分捕り(敵の首や武器を奪うこと)するな、切り捨てにするのだ。ひたすら励め」(『信長公記』)と。

そんな信長が今からぶつかろうとしていたのは、鷲津・丸根砦攻めで疲弊した兵たちではありませんでした。

朱色の鎧を着けた武者を率いて、大高城に兵糧を運び入れ、丸根砦を攻略した元康の軍勢は、前述のように、疲れをとるために、大高城で休息していたからです(『信長公記』)。信長が戦おうとしていたのは、まだ元気な「新手」の今川兵だったのです。

信長が山際まで兵を進めたとき、凄い勢いでにわか雨が降ってきました。大きな楠が吹き倒されるほどの風雨でした。「熱田大明神の神軍」ではないかと思わせるような風雨は、しばらくして収まります。

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