気がつくと、一人きりで例の席に座っていた。
夢でも見ていたような気分ではあったが、目の前のコーヒーは空になっていた。口の中は甘ったるい。
「……」
しばらくして、ワンピースの女がトイレから戻ってきた。二美子が自分の席に座っているのを見とがめると、つつつと音もなく寄ってきて、
「どいて」
と、妙に迫力のある低い声で言った。二美子はあわてて、
「ご、ごめんなさい……」
と、言って席を立った。未だ、夢心地のような感覚は消えていない。本当に自分は過去に戻っていたのだろうか? 現実は変わらないというのだから、過去から戻って、なんの変化も感じられなくても、当然といえば当然である。
キッチンからコーヒーの香りが漂ってきた。見ると、数が、新しいコーヒーの入ったカップをトレイに載せて現れた。
数は何事もなかったように、立ち尽くす二美子の前を横切り、ワンピースの女が座るテーブル席に歩み寄ると、二美子の使ったカップを下げ、淹れたてのコーヒーをワンピースの女の前に差し出した。ワンピースの女は小さく会釈をすると、また本を読みはじめた。
数は、カウンターに戻りながら何かのついでのようにこう言った。
「未来はまだ訪れてません」
「……いかがでしたか?」
二美子はこの一言で、やはり自分は過去に戻っていたんだと実感した。あの日、一週間前のあの日に。だとすれば。
「……あのさ」
「はい」
「現実はなにも変わらないんだよね?」
「はい」
「でも、これからの事は?」
「と、言いますと?」
「これから……」
二美子は言葉を選んで、
「……これから、未来の事は?」
と、聞いた。数は、二美子に向き直り、
「未来はまだ訪れてませんから、それはお客様次第かと……」
と、初めてニッコリと笑顔を見せた。
「……」
二美子の目が輝いた。
数は、
「コーヒー代……深夜料金込みで四二〇円になります……」
と、静かに言ってレジ前に立った。二美子は一度、大きくうなずいてからレジ前に移動した。
足取りが軽い。
二美子は四二〇円を支払うと、数の目をじっと見て、
「……ありがと」
と、言って深々と頭を下げた。そして、ゆっくりと店内を見渡すと誰にというわけではない何かに、強いていえば喫茶店自体にもう一度頭を下げて、颯爽と出て行った。
カランコロン。
数は、何事もなかったかのように涼しい顔でレジを打ち、ワンピースの女がほんの少しほほえんで『恋人』というタイトルの小説を静かに閉じた。
(2023年1月3日配信の次回に続く)
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