「ずっと、僕は君にふさわしい男ではないと……そう思ってた」
二美子は五郎が何を言っているのかとっさには理解できなかった。
五郎が言葉を続ける。
「コーヒーに誘われる度に、好きになっちゃいけないと、自分に言い聞かせてた……」
「え?」
「僕はこんなだから……」
そう言って、五郎は右眉の上を覆い隠すようにのばした前髪をかきあげた。そこには右眉の上から右耳にかけて、大きな火傷の痕があった。
「君に出会うまでずっと、女の人は、気味悪がって話しかけてもくれなかったから」
「私は」
「つきあってからも……」
「(そんな事気にした事なんてない!)」
そう叫んだが、湯気になった二美子の言葉はもう五郎には届かなかった。
「君はいつか……他の、その、カッコイイ男性を好きになると……」
「(ありえない!)」
「思ってたから……」
「(ありえない!)」
二美子は、初めて聞く五郎の告白にショックを受けていた。でも、言われてみれば思い当たらない事もない。二美子が五郎の事を好きになればなるほど、結婚を意識すればするほど、何か見えない壁のようなものを感じる事があった。好きか? と聞けばうなずく事はあっても、五郎の口から直接「好きだ」という言葉を聞いた事はなかった。一緒に街を歩いていると、時々五郎が申し訳なさそうに右眉の上をかくような仕草でうつむく事があった。五郎は街行く男性の二美子を見る視線にも気づいていたのだ。
(まさか、そんな事を気にしていたなんて)
だが、そう思った瞬間、二美子は自分の考えを悔いた。二美子にとっては「そんな事」でも、五郎にとっては長年苦しんできたコンプレックスである。
(私は、彼の気持ちなんて、ちっともわかっていなかった)
二美子の意識が薄れていく。めまいにも似た揺らめきに全身が包まれる。
五郎は伝票を取り上げ、キャリーバッグを片手にレジ前に向かって歩き出していた。
「かならず帰ってくるから」
(現実はなにも変わらない。変わらなくて正解。彼は正しい選択をした。私には彼の夢と比べられるほどの価値もない。五郎君の事はあきらめよう。あきらめて、せめて、彼の成功だけは心から祈れる自分になろう)
二美子は真っ赤になった目をゆっくりと閉じようとした。
その時、
「三年……」
五郎が二美子に背を向けたまま、つぶやいた。
「……三年待っててほしい……かならず帰ってくるから」
小さな声ではあったが、狭い店内である。五郎の声は湯気になった二美子の耳にもハッキリと聞き取れた。
「帰ってきたら……」
五郎は右眉の上をかくような仕草で二美子に背を向けたままボソボソと何か言った。
「……え?」
その瞬間、二美子の意識は揺らめく湯気のようにその場から消え去った。
意識が消える間際、喫茶店を出る前に振り向いた五郎の顔が見えた。一瞬ではあったが、その顔は「コーヒーでもおごってください」と言った、あの時のように優しい笑顔だった。
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