こうして健康な高齢者から買い取られた保険は投資家に転売され、「生命保険の自由市場」が出現したと大いに宣伝され始めます。
この新しいビジネスはライフセトルメントと呼ばれ2000年代には一大ビジネスに発展していきます。そしてついには生命保険に入っていない高齢者を勧誘し、お金を払って保険に加入させたうえでそれ買い取ることが始められます。
こうして生命保険は、純粋な投機の対象となり始めます。英国で最初の生命保険法が制定されてから230年、生命保険は誕生した時の崇高な理念を忘れ賭博への道を逆行し始めたのです。
さらにウオール街の投資銀行家たちは、買い集められた生命保険の証券化を思い付きます。高齢者の生命保険を大量に買い集め、パッケージ化して債券に組成し直し、大口投資家や年金基金のような機関投資家に販売するのです。
ちょうどサブプライムが米国各地の住宅ローンをひとまとめにしたように、膨大な数の生命保険がパッケージ化され「死亡債(デス・ボンド)」として売られているのです。生命保険の買い取りが東京地裁の判決により止まっている日本でも、この死亡債は米国から持ち込まれ販売されています。
合理性と道徳性のせめぎ合い
「いったいライフセトルメントや死亡債のどこがいけないのか、大きなメリットがあるのに」という主張には一理あります。関係する当事者のすべてにメリットがあり、他方で経済的なデメリットを被る人がいないわけですから合理的な制度です。日本でも消費者のためになることならば前向きに考えるべきだとの意見も多く聞かれます。たしかに市場主義的な合理性だけから見るならばそのとおりかもしれません。
しかし、そもそも生命保険を賭博と線引きしようとした被保険利益の考え方は、合理性からではなく、道徳性の観点から生まれてきたことを忘れてはなりません。
合理性に対抗する道徳性の論理は現代のような社会ではなかなか説得力を持ちません。人びとに受け入れられにくいのは事実です。ただ、少なくとも保険ビジネスに携わる人たちは、生命保険の歴史をひも解くことでその誕生時の崇高な理念を思い起こすべきでしょう。そして、現在、生命保険が直面する多くの問題に真摯に向き合わねばなりません。
生命保険は被保険利益の鎖を外した途端に賭博と化す習性を持っているのです。生命保険と賭博は兄弟です。それが生命保険の正体なのです。
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