「開脚できる102歳」勇気をもらえる"その人生" 中国地方の有名人「哲代おばあちゃん」の人生訓
最近はようやく自分をご機嫌にさせるこつをつかめた気がしとりますが、若い頃は悩みや葛藤を抱えて、そりゃあ、とがっとりました。人生の場数を踏み、いろんな感情に折り合いをつけながら心の角をなくし、人間が円くなっていったんでしょうな。そんな私が、自分らしくいるために大切にしていることをおさらいしてみます。
一、自分を丸ごと好きになる
二、自分のテンポを守る
三、ひとり時間も大切
四、口癖は「上等、上等」
五、何げないことをいとおしむ
いつもへらへら笑ろうて悩みもなさそうに見えるかも分からんですが、若い頃にはえっと(たくさん)えっと頭を打ってきたんです。
26歳で良英さんと結婚して石井の家に入ったけど、子どもを授からなんだのが一番です。
しゅうとは古武士みたいな人で美ノ郷村だった時代の村長でした。代々続く農家の嫁なわけですよ。子だくさんが当たり前の時代でしょう。子どもが持てんのなら、この家におるべきではないと自分では思っていました。
ばかにされる、という言葉が適切かどうかは分からんけど、何をするにも「あの家には子どもがおらんけん」と陰口を言われたくないという思いが強かった。負けん気っていうんかな。教員の仕事も炊事も田畑の仕事も一生懸命でした。勤め先の学校からも一目散に帰ってすぐ畑に出るんです。思い悩む暇をつくらんように、その日その日を忙しく働くことばかり考えとりました。
でもね、私には教員の仕事があったからずいぶん救われたんです。嫁という立場だけならこの家にはようおらなんだ。学校では子どもたちを存分にかわいがって、自分らしくいられました。子どもたちの親とも親しゅうなってね。自分が生きる場所がちゃんとあったから家でも頑張れたんかもしれません。
痛い思い、切ない思いをして、ようやく行き着いた
まあ、良英さんは、仕事は真面目でほんと人から慕われとったんですけど、豪快で毎晩人を連れてきては大酒を飲むんでございます。自分の給料は人付き合いと飲み代に消えてしまうの。じゃから私が稼ぐしかなかったんかもしれんけどね、ふふふ。
仕事があるというんは、そういう意味でも自分の存在意義というんか、心を守ってくれました。
振り返れば、私もいじらしいです。義理の両親をみとって、教員を退職してから、ようやく肩の荷が下りた気がしました。それまでは隙をつくらないよう鎧を着けたようなものでしたから。
でも、それも無駄ではなかったと思います。痛い思い、切ない思いをしてようやく行き着いたのが今の私です。とがっとった過去の自分も嫌いじゃあない。あれも正真正銘の私です。丸ごと好きよと認めてやりたいです。
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