太宰治が描いた「源実朝」「北条義時」その人物像 大河ドラマで描かれる義時の性格との共通点も
この人物が、実朝が暗殺(1219年)されてから20年経った頃(1239年)に誰かに向けて、実朝について語り始める。その人物は、12歳の時に、実朝に仕えることになったといいます。つまり、実朝の近習(男性)が、かつての主君のことを話し始めたのです。彼は実朝について、人々が様々論評していることを一刀両断しています。
「私には、ただなつかしいお人でございます。暗い陰鬱な御性格であつたと言ふひともあるでせうし、また、底にやつぱり源家の強い気象を持つて居られたと言ふひともございませう。文弱と言つてなげいてゐたひともあつたやうでございますし、なんと優雅な、と言つて口を極めてほめたたへてゐたひともございました。けれども私には、そんな批評がましいこと一切が、いとはしく無礼なもののやうに思はれてなりませぬ」と。
人々からの実朝の評価を無礼に思う
近年、見直しが行われているとは言え、実朝の評価には「京都風の文化と生活とを享受する楽しみに意をもっぱらにし、夫人も都から迎え、右大臣の高官を望むという風であった。そのため関東武士の信望はしだいに薄らいだ」という類のものが、ずっと付き纏ってきました。語り部の実朝近習からしたら、そうした評価はすべて「無礼」と映ったに違いありません。
近習は言います。実朝は「ゆつたりして居られて、のんきさうに見えました。大声あげてお笑ひになる事もございました」と。実朝に会ったこともない人々が、あれやこれやと訳知り顔に論評しているが、私(近習)は、実朝の本当の姿を知っている、人間・実朝の真の姿を……という近習の声が聞こえてきそうです。
疱瘡から回復した実朝ですが、その跡が顔に残り、面相は変わってしまう。実朝の母・北条政子は「もとのお顔を、もいちど見たいの」と平然と言い放つのですが、それに対し、実朝は「スグ馴レルモノデス」と答えるのでした。
ちなみに『右大臣実朝』という作品では、実朝の言葉の殆どが、片仮名で表記されています(それが、独特の空気感をこの作品に与えているように筆者には感じられます)。
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