楠木:部員は何人ぐらいでしたか?
矢野:一番多いときは41人在籍していました。全店合わせて従業員1000人ぐらいだったので、かなり多かったと思います。普通はそんな人が1人でもいたら、「変わった信用金庫やなあ」と言われるところですから。
今振り返ってみても、時代と地域がよかったのだと思います。八光信用金庫は八尾市の他に河内や南大阪が地盤で、そういう地域のお客様の気持ちと波長が合ったのだと思います。
お笑いのおかげで営業成績が上がった
矢野:私は弱気な性格なので、営業でもパッとしなかった。それがテレビに出たり、お笑い公演で人を笑わせているうちに、本業にも相乗効果が出てきて、営業成績が上がりました。
楠木:お笑いが仕事で役に立ったわけですね。
矢野:はい。おかげさまで、最後は支店長もさせてもらいました。支店長がお笑いをやると、一職員のときより、さらにウケがよかったです。
楠木:もしお笑いをやっていなかったら、どうだったと思いますか?
矢野:私は、お笑いのスイッチを入れなかったら「ぐたぐた」です。お笑いのおかげで、営業の仕事でも「ここで明るく大きな声で面白いことを言ったらウケるな」というのがわかりましたし、私自身も笑うと気分が変わって、スカッとするのです。もしお笑いをやっていなかったら、本業の仕事でも芽が出なかっただろうと思います。
楠木:矢野さんは、職員をしていたときから、お笑いがもう1つの本業のようなものだったわけですね。
矢野:おっしゃる通りです。私にとって、信用金庫の仕事も本業なら、お笑いも本業でした。ただ当時は「会社員が芸を見せて、お客さんからお金をもらってもいい」という時代ではありませんでした。収入の道ということでは、お笑いか、会社か、どちらか1つを取らなければいけませんでした。
楠木:支店長のときに、退職して笑いの道に進まれたのですね。
矢野:2002年に退職しました。融資などの本業でヘトヘトになってしまって。
楠木:バブル崩壊の後は、仕事がつらかったと聞きました。
矢野:業績を上げるために懸命に働いていたのですが、つらいことが多くて、ふらふらになって帰宅する毎日でした。それで、私自身が擦り切れそうになってしまったのです。
楠木:退職は短期間で決意したのですか?
矢野:いえ、支店長になってから3年ぐらいずっと葛藤していました。実は、お笑い研究会を作ってくれた中川さんが私より一足先に、信用金庫の常務理事を辞めて「オフィス・なかがわ」という、講演や執筆活動のための事務所を持っていました。そこで私も中川さんを頼って、好きな笑いを仕事にすることにしました。
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