しかし、中島さんが30歳の頃にバブルが崩壊。ここから、社会人人生も荒波になっていく。
「その年に結婚し、3~4年間は給料が上がらず。より規模の大きいライバル会社へ転職しました。そこでも年間300万円ほど収入がありましたが、新聞系の広告代理店だったため、WEB広告の台頭によって業績は急激に右肩下がりに。給料は減っていきました。広告に未来はない……と思っていた矢先、大阪に本社がある会社が広報を探してると紹介され、入社することに。当時の会長も中卒で、学歴は問われませんでした。
でも、その会社で順風満帆だったのは最初の2年間だけ。面接はあったものの当時は縁故入社も多く、閉鎖的な社風の、ザ・昭和な会社でした。入社後、さまざまな問題に気付き改善を要求するも『こんなんどこでもやってるわ』と言われました」
順風満帆の2年の後、不祥事対応に追われる
その後、所得隠しや横領などが発覚し社長が逮捕。中島さんは広報としてリリースや会見などのメディア対応に追われた。
「クスリを断った大学時代から、私はそういう不正義は受け入れられないタイプだったように思います。共産主義国家の報道官のように隠蔽はできなかったし、広報という仕事は会社の顔であり、真っ当な社員たちの想いを発信する仕事だと思ってやっていました」
中島さんはその会社で8年勤務したのち、退職。その後、外資系企業に内定をもらうもリーマンショックの煽りを受け取り消しに。40代後半でITベンチャーに入社すると、20歳若い同僚たちとテレアポをする生活となった。
この話だけ聞くと「やはり高卒だとベンチャーしか入れない」「大変だな……」などと思うかもしれない。もちろん転職活動では学歴の壁はあっただろうが、中島さんが凄かったのは、そこで無双したことだ。
「『2週間以内に1件契約を取れれば内定ね』と言われていたなかで、5件の契約を取ったんです。前職で上場する時に、一流の証券会社の上場担当から電話を受けて、営業のノウハウを自然に身につけていたんです。一流ほど、速度や声の高さ……など、みんな同じセールストークなんですよね。気持ちの持ち方次第で、いろんなことを学ぶことができるんだと思います」
仕事ができるか否かに、学歴も年齢も関係ないそうで、中島さんは55歳の時にヘッドハンティングを受けることになる。しかし、ここもなかなか大変な状況だった。
「『お家騒動に悩んでいる会社の広報はできないですか?』という電話がかかってきて、別の外食系企業に広報として就職。前の外食企業での広報の経験を買われた形です。突然、ビズなんちゃらから電話がきて、1週間で転職が決まりました。
入社して驚いたのは、オフィシャルな広報がおらず、PR会社に月々数百万円で丸投げしていたこと。それでいて、メディアとの接し方がお世辞にも上手とは言えませんでした。
当然にすぐに切ったのですが、その後、良からぬ事実が判明。社外取締役が曲者で、その人の口利きでPR会社に業務が委託され、その見返りとして社外取締役が2割ほどキックバックをもらっていたことがわかったんです。まさしく昭和の遺物です」
どこの会社も、透明性を失うとこんな具合になってしまうそうだ。
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