江戸時代の「鎖国」が導いた日本の高度経済成長 「管理貿易」で必要な資金や労働者を国内で調達

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また新規学卒就業者数をパーセンテージでみると、1955年は中学60パーセント、高校31.4パーセント、大学が8.6パーセントだったのが、1975年にはそれぞれ、6.1パーセント、58.6パーセント、35.4パーセントと、高校・大学卒の比率が急上昇する。そのため、比較的高度な技術や知識をもつ労働者の比率が増えた。金の卵と言われた中卒の労働者が、集団就職により都市で働いた。しかも、人口ピラミッドは三角形であり、給料が低い若年労働者が大量にいたことが、高度経済成長を支えた。このように、すべてがうまく循環していたのだ。

しかも日本経済は、1973年の第一次石油ショック、1978-79年の石油ショックも乗り越え、省資源型経済の実現に成功した。そのため1971年のニクソンショック、とくに1985年のプラザ合意以降円高が進んだにもかかわらず、輸出を伸ばすことができ、経済は成長することになった。日本経済成長の主要因は、第二次産業にあった。それは、高度経済成長の名残とみなすことができよう。

戦国時代への回帰か

高度経済成長とは消費財、とりわけ耐久消費財を人々が購入することで経済が成長した時代であったことはここで見た。

日本は、いうまでもなく、高度経済成長期に大きく輸出を増やした。しかしそのために必要な資金や労働者は、おおむね国内で賄うことができた。この点において、高度経済成長とは、江戸時代の経済制度の図式の一部を踏襲したということができるのである。

日本は国内だけではなく海外に工場を建設し、しかも国内にも外国人労働者がどんどんと入ってくるようになった。それは、新しい市場を求めて海外に日本人町を建設した戦国時代から江戸初期の姿に似ているといえるのかもしれない。

こういう観点から考えるなら、高度経済成長とは、じつは江戸時代初期に実行された鎖国というシステムの影響がまだ強く感じられたタイプの経済成長であったと捉えることも可能なのである。また江戸時代には消費財を、高度経済成長期には耐久消費財を購入するために、日本人は勤勉に働いたのだ。

江戸時代の日本は、その後重要な輸出品となる綿と生糸を生産するようになった。必要な労働力と資本は、自国で調達した。

高度経済成長期の日本も、労働力と資本を自国で賄ったのだ。むろん日本人も日本企業も海外に進出していったが、この点において、日本は、多くの工業諸国とは決定的に違っていたのである。

玉木 俊明 京都産業大学経済学部教授

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たまき としあき / Toshiaki Tamaki

専門は近代ヨーロッパ経済史。1964年、大阪市生まれ。同志社大学大学院文学研究科(文化史学専攻)博士後期課程単位取得退学。博士(文学、大阪大学)。著書に『ヨーロッパ覇権史』『ヨーロッパ 繁栄の19世紀史』(ちくま新書)、『近代ヨーロッパの誕生』『海洋帝国興隆史』(講談社選書メチエ)、『〈情報〉帝国の興亡』(講談社現代新書)、『近代ヨーロッパの形成』(創元社)、『ダイヤモンド 欲望の世界史』(日本経済新聞出版)など多数。訳書にヤコブ・アッサ『過剰な金融社会』(知泉書館)などがある。現在、ウェブメディア「Modern Times」にて連載中。https://www.moderntimes.tv/

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