江戸時代の「鎖国」が導いた日本の高度経済成長 「管理貿易」で必要な資金や労働者を国内で調達

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日本は、このような状況から立ち直り、高度経済成長を経験したのである。その大きなきっかけとなったのは、1950-53年の朝鮮戦争特需であった。1949年の輸出額が5億1000万ドルであったのが、1956年には25億100万ドルと、約4倍になった。鉱工業生産指数は、同時期に100から316に大きく増加した。

戦後の日本は、軍事に対する投資が大きく減り、その分を経済成長のために投資することができた。戦前から戦中にかけての日本の重工業の発展は、軍事産業と大きく結びついていた点で、戦後とは大きく異なる。

高度経済成長と耐久消費財

日本は世界史上稀に見るほどの高度経済成長を経験した。1955年頃から1973年頃までの年平均経済成長率は、約10パーセントであった。経済成長の大きな要因は、設備投資=第二次産業の進展と高い貯蓄率に求められよう。設備投資の費用を、海外から借りる必要はなく、国内の銀行からの借金(間接金融)で賄うことができたのである。おそらく他の後発国と比較するなら、外国からの借金をあまりせずに経済成長を成し遂げたのである。

輸出が拡大しただけではなく、日本国内においても、耐久消費財(洗濯機・電気冷蔵庫・テレビ・クーラー・自動車など)の需要が増え、日本人の生活は豊かになっていった。日本は、大衆消費社会となっていった。日本人は、生活水準の向上を目指して、一生懸命に働いたのだ。高度経済成長期には、たしかに第二次産業が大きく発展したが、その根底には、消費財を購入し、より豊かな生活がしたいという欲望が横たわっていたのである。

戦後の日本では軍事に対する投資が大きく減り、その分を経済成長のために投資することができた。石油の一滴は血の一滴と言われた戦前・戦中とは異なり、原油価格は大きく低下した。それは1970年頃まで1バレルあたり2ドルを下回るほど安かった。

また日本では若い労働力が多かったので、賃金は比較的少なくてすんだ。1ドル=360円の固定相場制のもと、日本の経済力が上昇して実質的には円がそれ以上に強くなっても、実質円安のため、輸出を増大させることができた。

農業労働者の数が減少し、工業労働力として重要な若い労働者が都会に出てきた。市部と郡部の人口比をみると、1945年には27.8対72.2だったのが、1980年には76.2対23.8と逆転する。日本は急速に都市化した社会となった。

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