山折:今のお話は、歴史のとらえ方の問題を提起していると思います。1950~60年代に、フランスの哲学者サルトルと人類学者レヴィ・ストロースが激しい論争をしたことがあります。サルトルは20世紀や21世紀の新しい問題について考えるとき、知識人は積極的に社会参加をして、変革の仕事にかかわらなければならない、と訴えた。歴史を批判的に、弁証法的に超えていこうとしたわけです。これをレヴィ・ストロースが批判した。レヴィ・ストロースは構造主義の立場です。「歴史は少々のことでは変わらない、岩盤のような要素がある」という言い方をした。
彼の議論のポイントは、歴史的な年代には2つあるということです。
1つは、個人主義的な歴史的年代で、せいぜい100年、50年、10年、1年の時間的な区切りで説明できるものです。たとえば、フランス革命がそうだというわけです。そして、もう1つの年代は、そんなものではないと言うのです。考古学的な年代だと。1万年、10万年、100万年の単位で横たわっている歴史ですね。
この年代で流れている人間の歴史は、そう簡単に変わらないし、個人化できない。個別化もできない。つまり芭蕉の言葉でいうと、「不易流行」の、不易の歴史があるということです。サルトルよ、お前さんの言っていることは、せいぜい流行する社会現象を批判しているだけで浅い、と言い返したわけですね。
風土の問題、宗教や人種の問題などは100年、200年で変わるようなものではない。それをサルトル的近代人は、ちょっと軽く考え過ぎていたのではないのかという批判です。思うに、私たちは今、このような反省点に直面しているのではないでしょうか。
人間についての学問が衰退
葛西:確かにそうですね。私が今、申し上げたのは、サルトル的な世界なのかもしれません。人間の作った仕組みというのは、人間の体と同じように命があるのでいったん老化すれば、決して若返らない。だから人間の作った社会は、1世紀に1回ぐらいは不適合現象を起こす、と。これはサルトル側の議論なのかもしませんね。
宗教や人間学というのは、もっともっと古いギリシャの時代、孔子の時代から今につながっているものです。それは何も変わってない、というのは確かにおっしゃるとおりだと思います。
山折:先ほどおっしゃった、人間は劣化するというお考えは、なるほどと思います。教育改革を考えるうえで、重要だとも思います。今の教育の目標は、科学技術創造立国になっています。それはそれで必要ですが、人文学、あるいはなかなか容易には変わらざるテーマを研究している学問は、どうなるのか。こっちがおろそかにされたために、今、人間についての学問が衰退しているのだろうとも思います。あるいはそれ以外に、もっといろいろな現代の諸条件によって衰弱しているのか。ここを考える必要があります。しかし、これがなかなか国民的な論議の対象になりません。
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