しかし、今や「インフレと生活!」の問題の喧噪で、世間はSDGsの音をかき消そうとしているかのごとくだ。
カール・マルクス研究者の斎藤幸平氏は「SDGsは大衆のアヘンである」と喝破したが、SDGsには、アヘンほどの依存性はなかったようだ。
かつての議論では、炭素ガスの排出に対する正しいプライシングが行われて、これが最終価格に反映して消費者の行動が変わると世界が良い方向に変わるはずだった。このロジック自体に変化はないはずだ。
自動車がガソリンで走るにせよ、化石燃料を使った発電による電力(送電時のロスも計算に入れて考えてほしい)で走るにせよ、燃料代・電気代が環境コストを反映して十分高ければ、自動車の利用が減って、地球環境に対する負荷が減るはずだった。
自動車の利用を減らす手段は、公共交通を使うのでもいいし、自転車に乗るのでもいい。あるいは、テレワークを増やして、そもそも移動の機会を減らしてもいい。いずれも地球環境に優しい。
「価格」の調節機能を無視する日本政府
ガソリン価格、電力価格といった「価格」には、世界レベルの必要・不必要を反映する機能がある。これらの価格上昇には、価格メカニズム的には、まずは「自動車利用の手控え」や「電気代節約」を通じて地球環境の改善につながる崇高な導きがあったはずではなかったか。
ガソリン、電気代への補助金は、こうした環境に好ましい変化を阻害する要因だ。政府と国民丸ごとが「変化」を嫌っているのかもしれない。それでは経済成長しにくいはずである。こうした効果を無視するように、ガソリン価格、電力料金、そしてさらにはガス料金への補助金による抑圧を行おうとしている日本政府は、まるでSDGsなど屁でもないと言いたげではないか。
冒頭の話がガスなので、落語なら「屁が出た」ところでお尻(終わり)にするところなのだが、もう少しお付き合いをいただきたい。
さて、庶民の生活にとって、ガソリン代や電気代の影響は大きい。では、これらの価格上昇を抑えることが適切な政策なのかというと、それはちがう。
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