安倍氏追悼演説「野田元首相」決定までの複雑怪奇 「常識的な落としどころ」の裏に政治的駆け引き
ところが、その間に安倍氏の「国葬」については、旧統一教会問題も絡んで国民的反対論が急拡大。これを受けて立憲民主執行部は共産、社民両党などと連携する形で「国葬反対」の立場を明確にした。
ただ、泉代表ら執行役員の国葬欠席は決めたものの、ほかの所属議員の出欠は自主判断としたため、野田氏や玄葉光一郎元外相が参列して献花し、与党側もこれを歓迎した。
この一連の経緯が、「野田氏追悼演説」への大きな障害となった。したたかな自民は「立憲民主の不見識を国民にアピールするチャンス」(国対幹部)と読み、「遺族の意向」で立憲民主を揺さぶり、追い詰められた泉代表らも白旗を掲げたのが実態とみられる。
10年前の「党首討論」の因縁
歴史を振り返れば、2012年12月に安倍氏が保守合同後初の再登板での第2次安倍政権発足させた際、その「キーパーソン」(自民長老)となったのが当時首相だった野田氏。同年8月の自民・公明両党との党首会談で「近いうちに解散する」と約束していた野田氏が、同11月14日の自民党総裁の安倍氏との党首討論で、突然「解散断行」を打ち出したからだ。
この党首討論で「『近いうち』という言葉も軽くなった」と強く早期解散を求めた安倍氏に対し、野田氏は思い詰めたような表情で「16日に解散をする。やりましょう」と応答。与野党双方が騒然とし、メディアが速報する中、安倍氏は「それは約束ですね。本当ですね」と大声でダメ押しした場面は記憶に新しい。
野田氏は予告どおり11月16日に衆院を解散、12月16日投開票の衆院選で自民党は政権を奪還、安倍氏の超長期政権につながった。
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