このような不条理に幼くして直面しなければならないということにこそ問題の根源がある。単に、異常な親による子どもの支配といった「毒親問題」と大きく異なるのはこの点で、信仰を拒否したことによる精神的・身体的・経済的虐待は二次的なものといえるかもしれない。宗教2世が自尊心、自己肯定感に問題を抱えやすいのはこのためだ。
ここには、2つ目の個人として取り扱われず思想信条の自由がないという側面が絡んでくる。
通常、子どもは自動的に信者(と同等の存在)としてカウントされるため、例えばある程度成長した時点で、儀礼への参加の有無などについて個人の意思が尊重されるなどということは基本的にはない。この一心同体化の圧力は、信心のある子どもには心地良いかもしれないが、信心のない子どもにはただの苦役となる。
私の場合は、学校の行事やアルバイトなどを理由に欠席を繰り返すようになり、少しずつ距離を取っていくことができたが、外部との接触を制限している教団やその方針に従っている信者の家族の場合は、子どもに逃げ場がない可能性が高い。
裏を返せば、分別がつく年齢であれば、親が子どもを独立した個人として取り扱えば済むのであり、家族全員の信仰を一致させること自体にそもそもの無理がある。だが、多くの親は家族と信仰を切り分けられず思考停止に陥る。私は決して教団や親が嫌いだったわけではない。「信じてもいない宗教の儀礼(=信仰の世界)を強制されること」が嫌だったのだ。
代替的なコミュニティがないと孤立する
3つ目の信仰集団とコミュニティが一体化していて外部がないという問題は、宗教2世が安心して過ごせる居場所がないことを意味している。これは、後述するように社会のあり方にも関係してくる重大な問題を孕んでいる。
私は、県外の大学に進学してから教団以外の人間関係を形成することができ、実質的な転機となった。親の無理解は続いたが、信者になる気がないことだけは伝わった。けれども、これは各教団や各家庭によって相当事情が異なるうえに、代替的なコミュニティとなりうるもの――教団以外の所属集団、支援者、理解してくれる友人などがないと孤立するリスクが高いといえる。
一家でエホバの証人に入信した後、自ら脱会し、最終的に家族全員を脱会させたという異色の経歴の持ち主である佐藤典雅氏は、自身の体験を綴った『カルト脱出記 エホバの証人元信者が語る25年間のすべて』(河出文庫)で、組織に長期間身を捧げてきた義兄についてこう述べている。
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