宗教2世の私が悩み苦しみ抜いた末に悟ったこと どのような信仰集団にもつきまとう3つの課題

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私が最初に違和感を覚えたのは、小学校2~3年生の頃で、自分もいずれは死ぬという「死の恐怖」に襲われたのがきっかけだった。天理教では、人の死は「出直し」と呼ばれ、「生まれ替わり」があるとされていたが、当時、動物の死骸を観察することに取り憑かれ、宇宙にも終焉があることを知ってショックを受けていた私には、とてもそれを信じることはできなかった。

その少し後だったと記憶しているが、(死後の再生が確信できないのと同じく)「神様がいるとは思えない」というようなことを、熱心な信者だった親戚のおじさんに話したら、えらい剣幕で怒られたことがあり、信仰への疑念を表明することはタブーなのだと強く意識するようになった。

家には神棚のある部屋があり、そこで定期的に「おつとめ」という祭儀を行っていた。家族全員で、時には、親戚や教会の関係者を交えて、拍子木やちゃんぽんなどの鳴り物の音律に合わせて、地歌を唱和し、手振りなどをする重要な宗教儀礼の1つであった。物心がつく前からそれが当たり前の光景で、日常生活に組み込まれていたが、信仰が受け入れられなくなるに従い、儀礼への参加や教会の関係者による講話が耐えがたい苦痛に変わった。

信仰のないところに「親の愛」はない

儀礼への参加は当然とされており、そこに選択の余地はなかった。「信仰の否定」は「親への反抗」とみなされ、親戚などには問題児のいる家族と認識され、前述のおじさんのような人が説得に来ることが容易に想像できた。

私は、家族に迷惑がかかることを恐れていたため、表面上迎合したふりをする面従腹背を貫くことにした。巨大な信仰共同体の内部にいながら、常に周りの顔色をうかがう「隠れ無神論者のような立場」になったのだった。まだインターネットも定着していない時代で、同じ悩み事を相談する相手もいなかった。さまざまな祭儀をこなさなければならない憂鬱な時間は、心ここにあらずの状態で空想の世界を旅していた。

宗教2世問題の本質は、家計の困窮やネグレクト(育児怠慢)などといった信仰への傾倒による弊害というより、親が従っている教団の信仰を受け入れることが、子どもにとって親から愛情が得られる前提条件となっていることにある。つまり、親から自分の存在を承認してもらうためには、信仰の世界に入らなければならず、信仰のないところに「親の愛」はない。

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