宗教2世の私が悩み苦しみ抜いた末に悟ったこと どのような信仰集団にもつきまとう3つの課題

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「もっとも彼の立場も分かる。二〇代の時からずっと全時間奉仕一筋できた。もう五〇代である。ここで宗教をやめてどうしろというのだ。ベテルを出て仕事をするには遅すぎる。しかも今の立場であれば、日本中の信者仲間から尊敬の目をもって慕われる。組織を捨てれば、ただの脱藩者で孤独な世界だ。組織の外に彼に友人や知り合いはいない。自分の慣れ親しんだ価値観と環境と人を捨てることは容易なことではない」

とりわけ信仰集団と、生活圏のコミュニティが完全に重なっている場合、そこから切り離されることは物理的に孤立するだけでなく、アイデンティティの危機をもたらす。宗教コミュニティを離脱した際の孤立のリスクは、教団の閉鎖性の度合いにおおむね比例する。

身を寄せられる場所や集まれる機会の提供を

そのため、宗教団体が絡む虐待といった緊急性が高いものに対する法的整備や、サポート体制の充実が重要であることは言うまでもないが、社会ができることはそれだけではない。宗教コミュニティからの離脱を考えている宗教2世が進んで身を寄せられる場所や集まれる機会の提供も同じぐらい重要である。

しかも、これは、宗教2世だけの問題にはとどまらない社会全体の包摂性に関わっている。社会学者のエリック・クリネンバーグは、図書館や公園、遊び場、学校、市民農園など、わたしたちの交流の形や暮らしの質を左右する「社会的インフラ」の重要性を説いた著作でこう説いている。

「強力な社会的インフラが存在すると、友達や近隣住民の接触や助けあいや協力が増える。逆に、社会的インフラが衰えると、社会活動が妨げられ、家族や個人は自助努力を余儀なくされる」と主張した(『集まる場所が必要だ 孤立を防ぎ、暮らしを守る「開かれた場」の社会学』藤原朝子訳、英治出版)。

わたしたちが外部との接点を持ち得るのは、こういった場の効用によるところが大きかったりするのだが、残念なことに普段意識されることはほとんどない。社会からクリネンバーグのいう「開かれた場」がなくなってしまうと、人々は問題を抱え込みやすくなり、共有される可能性は低くなる。最悪の場合、それが自殺などにつながることも起こりうる。

宗教団体に限らず、集団からこぼれ落ち、孤立する例は枚挙に暇がない。わたしたちはそのようなリスクと無関係に生きていくことはできない。だが、リスクが現実化した際のダメージについて想像を巡らせ、どのような社会が良いのかについて再考し、具体的に働きかけていくことはできる。

それは、結局のところ、わたしたち自身の境遇へと直接跳ね返ってくるのだ。

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真鍋 厚 評論家、著述家

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まなべ・あつし / Atsushi Manabe

1979年、奈良県生まれ。大阪芸術大学大学院修士課程修了。出版社に勤める傍ら評論活動を展開。 単著に『テロリスト・ワールド』(現代書館)、『不寛容という不安』(彩流社)。(写真撮影:長谷部ナオキチ)

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