時代に逆行する建議に最も抵抗を示したのは、ほかならぬ大久保だった。岩倉に相手にしないように伝えただけでは事足りず、「まるで子どものような態度で困ったものだ」と批判している。
そんな冷ややかな態度は往々にして本人にも伝わるもの。久光は辞表を出して、鹿児島へと帰ろうとする。また鹿児島にこもられては困ると、岩倉らがあわてるなか、大久保だけはこう言い放った。
「激怒しても何の問題もありません。鹿児島へと帰りたいというならば、許してあげればよいでしょう」
もう、うんざりだ。好きなようにするがよい。珍しく投げやりな大久保だったが、それはまずかろうと周囲のほうが焦りを募らせる。なんとか政権内に取り込もうと、明治7(1874)年、久光には左大臣の地位が与えられることとなった。
久光の止まらない暴走にうんざりして辞表提出
島津家にとっては初めて政治の表舞台に立ったことになる。久光がますます張り切ったことは言うまでもない。
このときは、ちょうど大久保が江藤新平を討伐し、台湾出兵を追認したころである。これから清と戦争になるかもしれない。そんな国難のときに、久光は礼服や兵制を以前のように戻そうと、場違いな主張し始めた。さらに建白書に、久光はこう付け加えたのである。
「もし、大久保が反対したならば、彼を免職すべし。そうでなければ、自分が辞める」
大久保か久光か――。政府がどちらをとるかといえば、いなくなられたら困るのは、大久保に決まっている。久光の手の付けられようのなさが、よくわかるエピソードだろう。伝えに来た岩倉に大久保は「今さら驚くことでもありますまい」と返答したというが、内心は我慢の限界だった。そのあと、久光のもとへと直談判に向かっている。
たとえ、立場が逆転したとしても、かつての主君といざ対面すれば、従っていたころの空気に少しは戻ってしまうものだ。だが、大久保はこのときに、久光と真っ向から対立。落とし所はみつからず、大久保は「やってられない」と、後日に政府に辞表を叩きつけている。
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