久光がいなければ、大久保は世に出ることはなかったかもしれない。幼少期、先輩の西郷が薩摩藩藩主の島津斉彬に気に入られてどんどん出世するのを見て、大久保は斉彬の弟、久光のほうに近づいた。
突破口となったのは、趣味の囲碁だ。久光の信頼を少しずつ勝ちとりながら、一歩でもそばに近づけるように全身全霊で仕えて、久光もそんな大久保を重用した。そして2人して薩摩から飛び出して、中央政治へと乗り出していったのだ。
西郷が斉彬を生涯敬愛したように、大久保だって本当は自分を引き上げてくれた久光を慕い続けたかっただろう。そのほうが物語としても美しい。
しかし、改革半ばで病死した斉彬は理想化できても、いまでも薩摩藩で影響力を振るう久光は、改革を担う大久保にとって乗り越えるべき存在だ。かつての関係性はとうに崩壊し、自分は憎悪の対象にすらなっていた。
西郷隆盛に東京へと連れ出されていた島津久光
明治政府が廃藩置県という大改革を成し遂げた後、一番大事な時期に大久保が、岩倉使節団として海外に行ったのは、久光から逃げたかったというのもあるだろう。事実、留守政府を任された西郷は久光から責め立てられて、呼び出された挙句に、罵倒されている(第38回『明治政府の中枢、西郷隆盛でも制御不能な男の正体』参照)。
西郷が、これまで関心を示さなかった朝鮮との問題にいきなり目を向け始めて、使節になることを望んだのも、久光からのプレッシャーで体調を壊し、死に地を探していたのではないか……そんな説さえ唱えられているくらいだ。
ターゲットとなった西郷が下野した今、久光の憎悪は大久保へと向けられていた。しかも、久光はこのとき東京にいた。薩摩藩で影響力を高められると危険なので、西郷が東京へとなんとか連れ出したのだ。東京に来させる口実として、久光には麝香間祗候(じゃこうのましこう)という名誉職が命じられている。
しかし、不満分子は目の届かない地元にこもらせても危険だが、中央にいたらいたでややこしい。西郷が下野した政変後には、久光には内閣顧問という肩書が与えられた。引き続き、東京にとどめおくための形式的な役職である。
それにもかかわらず、久光は明治政府に対して、さまざまな意見を打ち出していく。久光の主張はわかりやすい。それは「維新前の風習に戻すこと」。開化政策などもってのほかと、封建制の復活を主張したのである。
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