和平にあたってイギリスを頼ったことや、要望より少ない賠償金で解決させたこと、そして、そもそも、清と戦争をしなかったことに不満を持つ者たちもいるだろう。精いっぱいのことはやったが、これがベストだったかどうかは、自分にもわからなかった。
だが、意外にも、批判を覚悟して横浜に上陸した大久保を待ち受けていたのは、日の丸を掲げた国民の歓喜だった。
大久保は日記にこう綴っている。
「人民の祝賀や天皇からの厚き御待遇、まさに一世一代の名誉であり、感泣するばかりだ」
大久保の外交がどこまで国民に理解されていたかはわからない。お迎えも政府の動員に応じただけかもしれないが、「終生忘れられない日」と大久保は素直に受け止めている。
あるべき国のビジョンを描き、それに突き進んでいても、なかなか関係者以外には理解されないものだ。それだけに思わぬ光景が目に入って、冷静な大久保も感極まったのだろう。
江藤新平や清よりも厄介な存在「島津久光」
何かと自分の邪魔をするライバルの江藤新平も、理屈をも力でねじふせようとする大国の清も、大久保にとって難敵ではあったが、長年の経験から少なくとも「負けない自信」はあったに違いない。
今すぐに組み伏すことができなくても、勝負を投げさえしなければ、どこかの道から局面を打開できる。大久保の粘り腰は、こんな確信に裏打ちされていたように思う。
しかし、大久保からすれば、本当に厄介で、気が重い問題はほかにあった。薩摩藩の国父・島津久光である。
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