今の京都の基礎をつくったのは豊臣秀吉だった 平安京造営から800年後に行われた「大改造」

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軍事施設だけでなく、一般人が暮らす市街地を丸ごと囲む防御施設は総構と呼ばれる。この京都版総構である御土居の規模は群を抜いていた。総構の全長は、小田原城で約9km、豊臣大坂城で約8km、江戸城で約11kmだったが、これに対して京都の御土居は、南北に約8.5km、東西に約3.5kmを囲み、総延長は約24kmもの規模なのだ。

御土居内の寺院の配置(画像:宝島社)

御土居は高さ約5メートルの土塁と幅約20mの堀で構成され、土塁の上には10m以上の竹やぶが植林された。この竹やぶは壁の役割とともに土塁の崩壊を防ぐためである。京都は容易には攻略できない城郭都市に生まれ変わったのである。

この御土居によって、京都市中を意味する洛中と、外部である洛外が明確化された。御土居には「京の七口」と呼ばれる出入り口がつくられ、関所が設けられた。これによって京都に入ってくる人間をチェックした。

秀吉が行った寺院の大規模移転

御土居や聚楽第を造営した豊臣秀吉は、京都の市街地においても大胆な改造を行った。秀吉は公家や武士、町人などを身分別に洛中を割り振り、移転させたのである。これらの強制移転は「京中屋敷替え」と呼ばれた。

秀吉が職業別に居住地を決めたのは、行政管理がしやすかったからと考えられる。当時は、公家、武士、町人にはそれぞれ別の法律が適用されていた。また職業別にエリアを区切ることで税の徴収もスムーズに行えるからである。

京中屋敷替えで、最も大きな影響を受けたのは寺院である。鴨川沿いにつくられた御土居の内側、すなわち洛中の東端沿いに寺町と呼ばれる区画と、秀吉の政庁である聚楽第の北方に寺之内と呼ばれる区画がつくられ、寺院が集められたのである。

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なぜ秀吉は寺院の移転を進めたのか。当時の寺は、自分たちの宗派独自のネットワークを持ち、商人と結びついていた。この寺院と町衆の密接な結束を分断し、既得権益を弱めようと考えたのである。また寺院が市街地の外縁に集められたのは寺院を御土居に続く第2の防壁としての機能を持たせるためだ。寺院はある程度の敷地面積を有し、周囲を壁で囲むことになる。この各寺院に兵士を配置すれば、防御陣地となるのだ。

さらに注目すべきポイントは、ある程度同じ宗派、協力係にある宗派をグループにして移転先に集めた点だ。例えば、鴨川沿いの寺町には主に、それまで京都で長く活動をしてきた天台宗や真言宗、禅宗などのグループが移転させられた。一方、寺之内には寺町に移転したグループとは対立した歴史がある法華宗の寺院が主に集められている。そして、南には一向宗の本願寺が新たに創建された。東・北・南にそれぞれ異なる宗教グループを配置したのである。この寺院の配置は現在も大きくは変わっていない。

長方形の区画、洛中と洛外の概念、そして寺の配置、秀吉による京都大改造の痕跡は今日でも色濃く残っているのだ。

青木 康 杜出版代表取締役

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あおき やすし / Yasushi Aoki

埼玉県生まれ。学習院大学法学部卒業。神社専門編集プロダクション・杜出版株式会社代表取締役社長。全国の神社をめぐり、地域ごとに特色ある神社の信仰や歴史学の観点から神社を研究し、執筆活動を行っている。主な編著に『完全保存版! 伊勢神宮のすべて』『カラー版 日本の神社100選 一度は訪れたい古代史の舞台ガイド』『宝島社新書 カラー版地形と地理でわかる神社仏閣の謎』(いずれも宝島社)などがある。

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